明日の香り
飛乃 剣弥
二十九歳という若さで私の妻は死んだ。
交通事故だった。買い物帰り、見通しの悪い交差点で、飛び出して来た車にぶつかった。
そう、ちょっとぶつかっただけだった。体に傷らしい傷は殆どない。少し青い痣が出来ている程度だ。
直接の死因は、後頭部への強い打撲。倒れ込んだ位置に運悪く、歩道と車道の段差があった。
救急車で運ばれたときにはすでに手遅れ。即死だったらしい。
薬品の香り漂う病室の中、白い布を顔にかけられた妻の前で私はただ呆然とするしかなかった。窓から差し込む明るい太陽の光が、今の私の心境とあまりに対照的で、妙な怒りを感じる。
耳が痛くなるほどの静寂。ベッドで静かに横たわる妻の体。視界には彼女以外入ってこない。
「沙夜香(さやか)……」
ぽつり、と妻の名前を呟いて布に手を伸ばし、それを恐る恐る捲(めく)る。
早朝に降り積もった初雪のように白い肌。墨を流し込んだかのような艶やかな髪は、シーツに咲いた黒い花。整った顔立ちを彩るのは、細い眉、長い睫毛、通った鼻梁、形のいい唇。
安らかな顔だった。眠っている時と殆ど変わらない。
唯一違うのは、ピクリともしない体。
彼女から感じるのは静寂と停滞の気配。
「沙夜香」
もう一度呟いて、私は彼女に顔を近づけた。そして唇を重ねる。
――最後の口づけは、冷たい死の香りがした――
葬式の段取りを一通り終えた日の夜、私は一人妻の仏壇の前で手を合わせた。
二人目の子供のためにローンを組んで購入した一戸建て。六ヶ月後に生まれてくる予定だった子供の部屋に今、妻はいる。
涙は出なかった。心が壊れてしまったのかもしれない。
通夜、葬儀、告別式、そして火葬。決められた作業を機械のように淡々とこなしている間、何人もの友人や同僚に声をかけられたが、何を喋ったのか全く覚えていない。
感情や記憶といった人間性がいっさい排除され、私は完全に心を閉ざしてしまっていた。そうせざるを得ない状況だった。意識を閉鎖していなければ、私は間違いなく発狂していただろう。
月明かりに照らし出された線香の匂い漂う和室。それはどこか神秘的で、そしてどこか儚げだった。立ち上る煙の先に、沙夜香がいるような気がした。
「ねぇ、お父さん」
後ろから声がした。私はそちらに首だけを向ける。
ピンク地に動物の刺繍が施されたパジャマを着て、私の娘が上目遣いにこちらを見ていた。まるで、何か新しい玩具をねだる時のような、不安と期待の入り交じったような視線。
「明日香(あすか)……まだ起きていたのか」
気だるい声でそう言い、正座を解いて立ち上がる。そして一歩、明日香の方へと近づくと、娘は小さい体を私に預けてきた。
今年、小学二年生になったのに私の腰くらいまでしかない明日香の身長は、クラスの中でも一番低い。頭の両端で三つ編みにした髪の毛を尻尾のようにふりながら、私の足に頬をすり寄せて甘える。
「ねぇ、お父さん。お母さん、今日も帰ってこないの?」
高い、鈴の音のような声色で明日香は言った。少し大きめの目に月光が反射して、キラキラと輝いている。
妻ゆずりの美しい顔立ち。子供独特のぽっちゃりとした輪郭からでさえ、沙夜香の面影が色濃く醸し出されている。その娘から発せられた何気ない言葉は、私の内面を大きく揺さぶった。
「明日香……お母さんはね、もう帰って来ないんだよ」
「今日はでしょ? じゃあきっと明日は帰ってくるよねっ」
まるで、そのことが楽しみだと言わんばかりに明日香は屈託無く笑った。
いつもならその笑顔は私の宝石だった。仕事で辛いことがあっても、娘のその顔ですべて帳消しになった。
しかし――
「お母さんがかえってきたら、いっしょにお布団はいって、お父さんにえ本よんでもらって、それでお母さんにはうたをうたって――」
「明日香!」
疲れていたのだろう。精神的にも、肉体的にも。
失った物があまりにも大きすぎた。
生じた心の破綻を即座に埋め合わせることが出来るほどの器量は無く、嘘で塗り固めて自分を誤魔化すことが出来るほど器用でもなかった。
だから、私の怒鳴り声には全く手加減が無く……。
「っひ……」
短い悲鳴を上げた後、明日香は今にも泣き出しそうな顔になって私の方を見上げていた。
私は、いったいどんな顔をしているのだろう。
はっきりしている事は、これまで明日香に見せたことの無い表情だということ。
パタパタと軽い音を立てて部屋に逃げ帰っていく明日香の背中を見ながら、私は重い溜息をついた。
今の私には追って謝るほどの余裕は無い。それに意図的ではないとはいえ、沙夜香の死に笑顔で返したことを私は許すことが出来なかった。
次の日、会社を休んだ。とても行く気にはなれなかった。
顔を洗った時に鏡に映し出された私の顔は酷い物だった。短く切りそろえた黒髪には脂がのって、あらぬ方向へと跳ね、目の下にはありありと濃い隈が張り付いていた。眼球は血管を浮かび上がらせて赤く充血し、だらしなく開かれた口の周りは無精髭の無法地帯と化していた。
私は朝から一人、唯一沙夜香の気配のする仏壇の前で、何もせずに放心していた。
脳裏には沙夜香と過ごした楽しかった出来事が、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。想い出にすがること以外、私には救いが見いだせなかった。
『ねぇ、慎哉(しんや)さん。似合う?』
結婚前、私が初めて沙夜香にプレゼントしたのは毛皮のコート。まだ給料もあまり貰えなくて、安物しか買ってあげられなかった。それを彼女は起毛が完全に寝てしまった後も着続けてくれた。
『ほーら、明日香ー。お父さんでちゅよー』
明日香が生まれて社宅に入り、三人で過ごした楽しい日々。何物にも代え難い貴重な時間と空間。何をするにも、どこに行くにも、三人一緒でいられることを心から願った。
川の字になって布団に入り、私が絵本を読んで明日香を寝かしつける。その時、沙夜香が歌ってくれた子守歌が今でも耳元で聴こえてくる。
『二人きりで過ごすなんて、なんだか久しぶりね』
結婚記念日。一日だけ私の両親に明日香を預け、高級レストランで夕食をとった。想い出話に花が咲く。私がなけなしの給料をはたいて買った結婚指輪を嬉しそうにいじりながら、沙夜香は楽しそうに笑っていた。
『二人目、出来ちゃったみたい……』
恥ずかしそうに俯きながら、上目遣いで発せられた沙夜香の言葉。最初は何のことか分からなかった。ようやく理解した後、少し間をおいて沸き上がる喜び。思い切って、一戸建てを購入することを決意した。
しかし、その四ヶ月後、沙夜香は――
三時過ぎになって玄関の方から小さな音がした。娘が小学校から帰ってきたのだろう。
昨日のことを思い出す。後味の悪い想いが胸中に広がった。
「……お父さん」
ドアの向こう。こちらを覗き込むようにして、遠慮がちに明日香が呟く。落ち着かない視線で私の様子をうかがいながら、必死に次の言葉を探している。
「ああ、昨日はお父さんが悪かったよ。ゴメンな明日香。怒鳴ったりして」
口の端にぎこちない笑みを張り付かせ、絞り出したような声を明日香にかけた。
本心からそう思ったわけではない。ただ一晩たって、取り繕えるだけの余裕はかろうじて持てるようになっていた。
私の言葉に反応して、明日香が破顔する。その笑顔の輝きに生み出されるかのように、私の心には暗い影が落ち始めていた。
「じゃあ、じゃあっ、今度のお休み、ゆうえんちに行こっ」
さっきまでわずかに感じていた罪悪感が一気に霧散する。
なぜそんなに明るくしていられる。
なぜ私の絶望を分からない。
なぜそんなに私の神経を逆撫でする!
私の中に突如として沸き上がった黒い感情は一気に膨れあがり、体を突き動かした。
乾いた音。微かに熱を持った掌。
明日香は、赤くなった頬を押さえながら言葉を失っていた。
二呼吸ほど遅れて栗色の双眸が潤(うる)みを帯び始める。目の端から雫が溢れ、湿った傷跡を柔らかい頬に刻んだ。顔を恐怖と悲嘆に歪ませ、体を震わせている。
ぎゅっ、と下唇を噛み、明日香は部屋を飛び出した。
玄関の扉が開け放たれる音。
アスファルトを蹴る小さな足音は徐々に小さくなっていく。
何をしているんだ、私は……。
鼻を鳴らして、意味もなく笑みを浮かべた。全身の筋肉が弛緩してしまったかのように、だらりと首を下げる。
帰ってきたらもう一度謝ろう。その時までに、何とか気持ちを落ち着かせなければならない。演技でも何でもいい。とにかく、いつまでもこうしているわけには行かない。
――私がそう決意した、わずか三十分後だった。明日香が車に跳ねられたと知らせがあったのは。
『軽い打撲程度で、体に外傷は殆どありません。ただ、頭を強く打っています』
それが医師に説明された明日香の容態だった。驚くほど沙夜香が死んだときの状況と酷似していた。最悪の結果が私の頭をよぎる。
『とりあえず命に別状はありません』
そう聞かされて、胸をなで下ろす私に医師は『ただし――』と続けた。
「明日香……」
ベッドの隣にあったパイプ椅子に腰掛け、娘の手を握る。そんな私を明日香は不思議そうな顔で見返してきた。
「ねぇ、どうしてわたしの名前知ってるの? おじさん」
その言葉が冷たい手となって私の心臓を鷲掴みにする。一瞬呼吸が止まり、眼窩が灼けた杭を直接打ち込まれたような異常な熱気を持ち始める。目の前が数回明滅した後、空気の一部が光を帯び始め、視界を白く染めていった。
『記憶を失っています』
自分の名前以外は何も覚えていない。それが奇跡的に命を取り留めた事への代償。
「なぁ、明日香。本当にお父さんのこと覚えてないのか?」
「痛いよ、おじさん」
いつの間にか強く握りしめていた手を慌てて離した。一瞬で冷めたぬくもりに、目の奥の熱が増した気がした。
『記憶喪失に関しては医学的な治療法はありません。何度も話して、出来るだけ多くのきっかけを作ってあげてください』
それから、私の通院生活が始まった。
明日香との想い出。
幼稚園での運動会。かけっこの途中で転んで、泣きながら私と沙夜香の所に帰ってきたっけ。
ゆり組全員で行った芋掘り。泥まみれになりながら、ミミズばっかり掘り起こしていた。
小学校の入学祝い。少し大きめの制服を着た明日香を校門の前で写真に撮ったら、力一杯目をつぶっていたね。
小学生、最初の夏休み。毎日ラジオ体操に行くと張り切っていたのに、結局私が明日香のスタンプカードを持っていったんだよ。
三人で行った海。入ってすぐに海水を飲んで、それからはずっと砂浜で遊んでいたなぁ。
七歳の誕生日。ケーキのイチゴを一人で全部食べて、本当に幸せそうな顔してた。
明日になれば、明日になればきっと。自分にそう言い聞かせて、私は明日香に話しかけ続けた。明日香は私の話を楽しそうに聞いてくれる。いつ記憶が戻ってもおかしくない。しかし、相変わらず私を呼ぶときは『おじさん』だ。そのたびに、胸が締め付けられる。
そんなことを繰り返している間に半年の月日が流れた。
退院して家に連れて帰ってからは、明日香と過ごす時間が格段に増えた。そのおかげで随分仲は良くなった。端から見れば完全な親子だ。だが、明日香は私のことを父親だとは思っていない。単なる『人の良いおじさん』だ。
この半年、自分の無力さを痛感させられた。実の娘と『家族ごっこ』を続けている現状は、まるで切れない刃物で薄皮を向いていくように、苦痛を伴わせながら徐々に精神を削り取っていく。
これは私に与えられた罰なのかもしれない。娘の気持ちを考えてやれなかった、愚かな父親への。
まだ病院にいた頃、明日香が私にこんな話をした。
『さいきん、良く同じユメを見るんだ。おっきい体した男の人がね、女の人の前で、すごくかなしそうなカオで子供みたいに泣いてるの』
夢に出て来るという男は、一人暗い部屋で三角座りをして、いつまでも泣き続けているという。彼の前には女性がいるのだが、彼女は男がどれだけ悲しんでも笑顔のまま、ただじっと彼の方を見下ろしているだけだというのだ。
『でね、わたしがなぐさめてあげようとするんだけど、その男の人はいやがるの』
明日香はその男に何度も何度も声をかけるが、男は全く取り合わない。しかし、何度目かの呼びかけに反応した男は、あろう事か明日香を突き飛ばし、火の出るような勢いで罵倒するらしい。
明日香の悪夢はそこで終わる。
『すごく、すごく、かなしいユメなんだけど、わたしはどうしてもその男の人を元気にしてあげたくて……』
話を最後まで聞き終えてすぐ、その男は私のことで、女は沙夜香の遺影である事が分かった。
『ねぇ、おじさん。どうしたらいいと思う?』
何も、言えなかった。
胸の奥で言葉が詰まったまま、呑み込むことも吐き出すことも出来ない。強烈に襲いかかる閉塞感が、どうしようもない自分の愚鈍さと脆弱さを浮き彫りにしていく。
明日香は私のことを元気付けようとしてくれていた。明るく振る舞ったり、遊園地に行こうと言ったりして。明日香なりに精一杯、私のことを気遣ってくれた。しかし、それに対して宛(あてが)われた報酬は暴力。その結果生まれのは、この惨劇。
私は明日香の慰労に気付くだけの余裕がなかった。沙夜香の喪失によって穿(うが)たれた胸の空洞は、それほど大きかった。
だが……だが、それでも私は父親として娘の想いに気付いてやるべきだった。
明日香が私の隙間を埋めようとしてくれている姿が、今更ながらに追憶される。
今度は、私が明日香を支える番だ。今起こっている惨劇を最悪の物としないために、私は命を削ってでも娘の記憶を取り戻さねばならない。
「明日香、今日はどの本を読んであげようか」
夜。明日香と一緒に布団に入りながら、私は数冊の絵本を娘の前に差し出した。
畳敷きの部屋の真ん中に、明日香の子供用の布団。そしてそのすぐ隣に、私の布団。微かに香る藺草(いぐさ)の匂いは不思議な安心感をもたらしてくれる。
雨の日は、明日香と一緒にここで良く遊んだ。台所からは、沙夜香の焼いたクッキーの香り。楽しく、平和だったあの頃。こんな事になるなどと誰が想像しただろう。
明日香の記憶は今日も戻らない。もうすでに出来る限りのことはやった。明日香と一緒に行った想い出の場所や、楽しかった出来事はすべて再現したつもりだ。
娘はいつも楽しそうにしてくれる。何度も記憶が戻ったかと思った。しかし、私を呼ぶ言葉は変わらない。
――おじさん。
正直、疲れた。
このまま報われない努力をしているくらいならば、いっそのこと今の生活を受け入れてしまった方が楽なのではないか。そんな悪魔の囁きも、何度か聞こえた。
「これっ」
一冊の本を指さして明日香は明るく言う。
その言葉で私は我に返った。これまで何度もそうだったように。
私に諦めることは許されない。例え私が死ぬまで明日香の記憶が戻らなくても、労力を惜しんではいけない。それが、私に出来るせめてもの償いだ。
自分に一喝し、私は絵本を読み始めた。内容は、悪い王様を正義の騎士が倒すというシンプルな物だ。
時々、明日香の頭を撫でてやりながら、感情を込めて物語を進めていく。
話が終盤にさしかかり、騎士が王様の城にたどり着いた辺りで、明日香の方を見た。いつもなら、目をつぶって寝息を立てていてもおかしくない。
だが、今日だけはなぜかパッチリと目を開いたまま、寝入る気配を見せなかった。
「どうした? 眠たくない?」
「……うん」
私の方を見ながら、明日香は申し訳なさそうに布団を口元まで上げる。
沙夜香と一緒に三人で寝ていた時も、何度かこういうことがあった。そう言えば、こんな時はいつだって沙夜香が子守歌を歌って寝かしつけていたな。
私は絵本を置き、布団越しに明日香の体に手を置く。そして生前、沙夜香がしていたように手で軽く布団を叩きながら歌い始めた。
「かーごーめー かーごーめー かーごのなーかの とーりーぃはー いーつーいーつー でーやーぁるー」
自分の歌で沙夜香の声が想起される。彼女はもっと澄んだ声で、歌っていた。良く通る声だった。まるで、ハープの音色のように。
「よーあーけーのー ばーんーにー つーると かーめが すーべったー」
この歌を聴くと、私まで眠くなったっけ。それくらい、美しい音律だった。女性特有の高く、そして甘い歌声。
「うしろのしょーめん だーぁれ……」
歌い終わって、少し自嘲気味に笑う。
歌を歌ったのなんて何年ぶりだろう。小学校以来かもしれない。簡単な歌だったけど音程は外れていた気がする。どうも、この手の芸術的な才能は私には無いらしい。
「眠ったかい? 明日香」
肩まで伸びた、柔らかい髪をそっと撫でてやる。
『すぐに眠れるわけないよ』
そんな答えを予想していた。
だが――
「そっか、お母さんは死んじゃったんだね、お父さん」
「……え?」
私は耳を疑った。
それはもう二度と聞くことが出来ないと思っていた言葉。
「お前……記憶が……」
目に入るすべて物の輪郭が朧気になり、視界が歪む。一度、堰を切られた涙腺から、とどまると言うことを知らず、涙が後から後から溢れ出てきた。
沙夜香が死んだとき、ろくに流せなかった涙の分まで。
「もう、お母さんの歌はきけないんだね……」
真っ直ぐに天井を見つめる明日香の横顔。静かに目をつぶった拍子に、頬に描かれる光の軌跡。
なぜ、今まで明日香の記憶が戻らなかったのかが、ようやく分かった。
私は記憶を取り戻すのに必要なのは、大切で、楽しかった想い出だとばかり思いこんでいた。
しかし、本当に必要だったのは明日香が母親の死を受け入れること。
母親に二度と会えないと言うことを、頭では理解していたのかもしれない。しかし、心がそれを拒絶していたのだろう。そして、あの時私から受けた辛辣な仕打ち。
交通事故は自分の殻に閉じこもるためのきっかけに過ぎなかったのかもしれない。
いつもは母親の声で聴かされていた子守歌。それを私の口から聴いた時、明日香は殻を破り、母親の死を受け入れた。
そして、恐らくは私も同じ。
ただ仕事と明日香との会話に忙殺され、沙夜香の事を考える時間が減っていただけ。私は、沙夜香の死を受け入れたわけではなかった。明日香にその片鱗を見いだしながら、自分を誤魔化し続けていた。
だが、これでようやく――
「なぁ、明日香」
震える口調でようやく私は言葉を紡ぎ出す。
「明日、遊園地行こっか」
「うんっ」
それは太陽の笑顔。唯一無二の宝物。
ようやく、止まっていた時が動き始める。
娘からは明日の香りがした。
(完)
(C) Kenya Hino 2006