佐藤愛子氏の「私の遺言」を読んで

赤松 亜美



 生きる事とはどういう事か?
 また、死ぬ事とはどういう事か?
 生と死に対する疑問を真っ正面から、捉えた本だと、私は強く感じた。

 私の母と弟は熱心なカトリック信者である。私は、周りに信仰する事を勧められながらも、信者としての誓いをたてられなかった。一生カトリック信者として生きる事とは、どういう事だろうか? また誓いが守れなくなったら、どうなるのだろうか? その答えを探していくと、私はいつも恐ろしい気持ちに駆られていった。

 世の中にはありとあらゆる宗教が蔓延る。そして、それらの宗教を通して多くの神が存在している。日本人なら、仏や神社の方が馴染み深いと思うが、それでも、それらを押し退けて訳の解らない新興宗教も増え続けていく。どれが本物で、どの神が正しいか、教えも考えも異なるそれぞれの神は、現代の私達を困惑させるばかりだ。私は、イエスキリストの存在を漠然と信じながらも、お釈迦様の存在も否定できない気持ちもあった。またヒンズーの神様もユダヤの神もイスラムの神も、やっぱり何処か否定できない気持ちだった。当然そうなると神社に奉られる神道の神話も実在するような気がした。神頼みは、あまりする方ではないが、神仏を信じて、昔の人々が精魂こめて作り上げた仏像や寺や神社を私は真っ向から否定する気持ちにはなれない。そして私は、そんな日本の文化的遺産をとても美しいと感じている。

 私の出会ったカトリックの神父さんは、他の宗教を否定などしなかった。むしろ交流を好む人だった。子供達を引き連れて、寺や仏像を見に行った。それからプロテスタントの教会へも、子供らを連れていった。外国から客が来たら、快く日本の文化をジョークを交えて紹介した。神社の鳥居を、来客のドイツ人と潜り、ここを通ると日本人は幸せになると、その語りはとても滑らかだった。心の広い人だったのだろう。豊かで大きくて、彼の口癖は世界は皆友達だった。私は、そんな豊かで愛に溢れた神父さんにどれだけ助けられた事だろうか。けれども、やっぱり誓いとなると、私はどこか怯んでいた。

 新年の初詣に友達と行く約束をしていた私に、母は釘を刺した。神社に初詣などよしなさい、と。神道の信仰などしていないのに、なぜ参拝に行くのか? 行くなら教会へ行きなさい、と。この言葉は、道に迷った私を更に踏みとどませる結果となっていった。けれども、今更ながら思うと、母はただ真面目な信者だっただけなのかもしれない。それ故に、教会のミサへ通いながら、他の神にも祈るなどと、母の目には、そんな私がとても不真面目に映ったのだろう。私は情に厚い神父さんに会いたい気持ちだけで、教会へ行った。教会の行事にも進んで参加した。海浜学校の手伝いもした。ボランティアで海外へも行った。けれども、信者にはやっぱりならなかった。

 そして、広く浅く無宗教派のような私の心は、今時のよく見かける普通の人のように、上辺だけ、沢山の神々に、訪れた観光地で手を合わせるのみとなった。

 このままでよいかと聞かれれば、その答えはノーかもしれない。けれども、疑問が拭えない限り、どの神を頼っても信じても私には同じ事なのである。

 そんな時、私は佐藤愛子さんの著書「私の遺言」を読んだ。著書には、佐藤先生が、二〇年来の実体験がまざまざと書かれてあった。北海道の浦河の山奥に別荘を建ててから、佐藤先生の身の回りで起こる霊現象の光景や、それらを通して、佐藤先生が巡り会った霊能者達の話、そして、先生自身が出した、人の生き死にについての結論。心霊体験など、さらさらない私だが、引き込まれて読み続けるうちに、私はこの事を強く信じたい気持ちになった。神々の謎についても、先生は実に明解に書いていた。人の命は何処から来て、また何処へ行くのか、そして、私達は、どう生きるべきか。

 この本を通して、私が得た事はとても多かった。信仰に迷って、その後の私は自欲のままに生きていた。けれども、この本はそんな私を諭すように一つの道しるべを、与えてくれたのかもしれない。私がこれから自分をどう生きるべきか。そして、全ての答えをくれた佐藤先生に、心から感謝するばかりだ。

 佐藤愛子さんの著書「私の遺言」。是非、一人でも多くの方がこの本を手にとって、生きる答えを見つけてくだされば、この上なく幸いな事である。

2004/03/07



(C) Ami Akamatsu 2004

渡部書店