暁は遙かなり

中野 サトル



目次

序章
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
終章


序章

 突然爆音がして眼の前が白く光り、弾かれたように飛び起きた。
 景一はしばらく事態を把握できず、布団の上に身を起こしたまま呆然としていた。
 だれかが壁を力まかせにたたいている。
 ズッシーン、ズッシーンと、窓まで揺れている。
 意識がはっきりすると、隣の部屋の男が、釘か何かを打ちつけているのだとわかった。安眠をやぶられた景一には、それは許し難い行為と感じられた。
 ――朝っぱらから何の騒ぎだ、いったい。
 怒りが込み上げてくる。
 険しい顔つきで、いまにも部屋を飛び出そうとしたとき、ふと時計が眼に入った。十一時を少し回っている。瞬間、ふっと力が抜けた。昼に近い時間であれば、男の行為も許せる。ふいに起こされたせいで、かってに早朝と勘違いしていた自分がおかしかった。
 男が作業を終えると、静寂がもどってきた。
 景一は明け方まで飲んでいたため、まだ寝たりなかった。
 また横になったが、なかなか寝つけない。まどろむ意識の表を、脈絡のないイメージが浮かんでは消えていく……。
 景一はふと気懸りなことがあるのに気づき“おやっ?”と、目を開けた。それが心をとらえているから、眠れないのだと思った。寝不足の頭で考えごとをするのはいやだったが、クイズを解く気楽さで思い返してみた。
 タバコに火をつけ、肘枕をして、煙を目で追っていた。
 すぐわかったことは、さきほどの、目覚めるときに受けた衝撃と係わりがあるということだった。
 そういえば、それは不思議な感覚だった。壁をたたく、ばかでかい音に襲われた瞬間、稲妻のような白い光を見た。その光が、思い出すカギのようである。
 景一は頭のなかで、目覚めの瞬間を正確に再現してみた。
 ――白い閃光、……跳ね上がるほどの驚き、……いや、その驚きには、恐怖に似たものもまじっていたようだ……。記憶をたどった。
 ややあって、景一の顔つきが一変した。眉間に縦皺を寄せ、深刻な表情である。それは気懸りなものを思い出したせいであるが、その正体は登山ナイフだった。

 今から三ヵ月前の、昨年の十月のある日、かつての恋人と新宿で遊んでいるときのことだった。スキー用品のバーゲンをやっているからという彼女の誘いで、駅前のデパートに立ち寄った。
 地下二階の登山用品のフロアーを歩いているとき、鋭い光が景一の眼に飛び込んできた。一瞬、ギクリとして立ち止まった。
 すぐ前方は、登山ナイフの売り場だった。一人の男がナイフを手に持ち、熱心に見入っていた。その刃の、照明に反射した光が、偶然景一の眼に入ってきたのだった。
 急に立ち止まった景一に、腕にもたれていた彼女も足を止めて、
「どうしたの?」と、心配そうに見上げていた。
「いや、何でもない」と景一は言って、すぐまた歩きだした。
 視界からナイフが消えた瞬間、それが背後から襲ってくるイメージが脳裏を走り抜けていった。
 それから数日、あのナイフのことが忘れられず、手に入れたいと考えるようになった。だが、危険を感じ、断念した。
 そして三ヵ月後の今日、またそのことを思い出してしまった。
 目覚めるときに見た閃光が、刃に反射した光に似ていたからであるが、それだけではなかった。それへの執着が、いかに強いかを意味する。胸の奥に、むりやり沈めていた思いが、ちょっとしたきっかけで浮かび上がってきたにすぎない。
 ――あのときおれは、ナイフへの執着を、引き裂くように断念した。やつが心中でも強要しそうな勢いだったからだ。……おれは、ちと臆病だったようだ。やはり、手に入れることにしよう。
 景一はすぐに出かけた。

 エレベーターで地下二階に降りたのはよかったが、方向をまちがえ、フロアーをぐるりと一周してしまった。色とりどりのスキーウエアーを飾っているすぐ先に、目的のコーナーが見えてきた。
 そこだけちがった雰囲気である。華やかな色どりはまったくなく、不気味に静まっている。
 ショーケースの中には、見事な輝きのナイフが、ズラリと並んでいた。
 景一は無心に見入った。
 しばらくして、そばにいる店員に声をかけた。
「これを見せてください」
「承知しました」
 店員は鍵を開け、景一の指さしたものをショーケースの上に置いた。
 景一はそれをちょっと手にしただけで、金をわたした。
 まっすぐアパートへ戻った。
 部屋に入ると、ナイフを袋から取り出した。柄も鞘も黒っぽい焦げ茶色で、木製の柄は、握るところが少し細く窪んでいる。鞘は固い皮でできていて、下の端に『Made in Finland』と、刻まれてある。
 景一はその場であぐらをかき、おもむろに鞘をはらった。刃は、窓明かりにキラリと光った。先端は凶器のようにとがり、何物をも貫くような妖しい光を放っている。
 それを眼の高さに立て、じっと見入った。
 凛と冷たい緊張感。白く鋭い輝きに、吸い込まれていくようだった。永遠に、死の世界まで落ちていけそうだった。そこには、悲業の死を遂げた父の死があった。散り急ぐように無惨に散った祖母と養父の死――それらすべての死が、そこには確実に存在していた。
 真冬の寒気が隙間から忍び込んでくる。
 死の予感と酷寒に、身震いしながら呟いた。
「今日から、この死をかたわらに、生きてゆくのだ」


第一章

 景一は、今年の正月も独りでずっと東京にいた。
 テレビはなく、ラジオもほとんど聞かなかったので、正月気分を味わうことはまったくなかった。
 昭和五十二(一九七七)年も明けてはや半月が過ぎていた。
 今日は、この冬一番の寒さかと思われた。よく晴れてはいるものの、北風が厳しく、骨の髄までしみるような寒さだった。
 景一は昼前に起きて軽い食事を取ってから、ずっと机に向かって読書していた。
 暖房器は足元にある電気ストーブだけなので、隙間風のひどいこの部屋の中は、戸外とさほどかわらぬほど寒々としている。
 景一は机を離れ、ゴロリと横になった。長身の体を長々と横たえて、タバコを吸いながら、引っ越しをどうすべきかを考えていた。
 景一が福岡の高校を卒業して上京してから、この春で六年になろうとしている。その間、毎年のように引っ越しを繰り返してきた。おもな原因は、隣近所の騒音にあった。
 景一が今のアパートに移って、もうじき一年になるが、やはりここでもアパートの住民がたてる騒音に悩まされ続けていた。そのつど注意し、ときには威嚇さえ加えるのだが、一時的な効果でしかなかった。
 このままでは神経がおかしくなるのではないか、と懸念することもあった。
 できれば早めに次のアパートを探したいのだが、さきだつものが心配なのだった。必要とする十数万を使ってしまうと、余分な金は二、三万くらいしか残らないだろう。しかもその金は、もともとオーディオ装置をグレイドアップするために、長い間かけて貯めてきたものである。なかなか決めかねて一日延ばしにしてきたが、やはり勘念するしかないようだ、と考えていた。
 少しウトウトしていたようである。
 寒さで目覚め、反射的に時計を見た。四時になろうとしていた。急がないと仕事に遅れる時間である。
 景一は、神宮外苑前にあるGビルで夜警をしている。五時までに出勤しなければならなかった。
 しかし、あわてるのもしゃくなので、ゆったりとタバコを吸った。
 用意をして外へ出ると、北風が平手打ちのように顔に吹きつけてきた。景一は、皮ジャンのポケットに両手を深くつっこみ、やや前かがみになりながら足を早めた。
 高田馬場駅で弁当を買い、すぐ来た電車に乗った。渋谷で地下鉄に乗りかえ、外苑前駅を降りてすぐのGビルに着いたのは、五時数分前だった。
 かろうじて遅刻を免れたようである。
 ビルの中は、うそのように暖かかった。
 このビルは十五階建てで、テナントは保険会社の支店をはじめ、貿易会社、ファッション関係の会社など、三十二社が入った雑居ビルである。地下一階が駐車場で、地下二階と三階が倉庫になっている。景一はこのビル全体を巡回してまわる警備員である。
 地下三階のエレベーターを降りたすぐ左手の部屋が警備室であるが、景一はまず二階にある、このビルを所有し、管理している会社の管理部へ、出勤の挨拶に行くのだった。
「失礼します」と言い、部屋に入ると、女子事務員の田辺が、
「ごくろうさま」と電卓を打ちながら、顔を上げずに言った。
 景一は彼女に軽く頭を下げ、奥にいる西村の方へ歩いた。彼が警備の担当者である。
「こんにちは」と景一が挨拶すると、西村は顔を上げ、
「ごくろうさま」と言って、机の引き出しのカギを開けてマスターキーを取り出し、
「よろしくお願いします」といって、景一にキーを手渡した。景一はそれを受取り、
「失礼します」と西村にいって退室し、エレベーターで地下三階へ降りた。
 鍵を取り出して警備室のドアを開けた。
 巡回中と仮眠中以外は、ドアを開け放しにするようになっているので、ゴム製のストッパーを使って、ドアを止めた。
 警備室は四畳間くらいの広さで、入ってすぐ左手に大きな机がひとつあるだけである。奥にもうひとつ、パーティションで仕切られた三畳くらいの部屋があり、そのドアを開けると、手前にロッカー、そして向かいに二段ベッドが、かろうじて通れるくらいの隙間を隔てて置いてある。ここは警備員の仮眠室兼、更衣室である。
 景一は警備服に着替え、ロッカーの扉にある小さな鏡を見ながら髪を整えた。腕時計は、五時十分を指している。これから七時の巡回までの二時間近くを、警備室で過ごすことになるのだった。
 警備室のある地下三階と、ひとつ上の地下二階は倉庫になっているので、いつもまわりは静かだった。警備員でも怖がる者もいるくらいであるが、景一はこの静寂がひどく気に入っていた。
 ここでの警備員の仕事は、まず七時、九時、十一時と、二時間おきの巡回がある。その際、退社及び終了した部屋の消灯、施錠、火の始末などを点検する。それ以外の時間は警備室で待機している。仮眠時間は、一時から六時まで、五時間あった。
 一度の巡回にかかる時間は四十分前後である。したがって、長い時間警備室で過ごすことになる。
 待機していると、忘れ物などで部屋を開けたり、電話の問い合わせなどあるが、まったく何もない日もあった。
 景一は、奥の部屋から灰皿を持ってきて机の上に置き、いすに座ってタバコに火をつけた。
 机の上には、内線用と外線用の電話と、ラジオが一台置いてある。
 景一は、ふだんは読書したり思索したりして過ごすので、ラジオをつけることはめったにないが、今日は何もする気になれず、スイッチを入れて、小さな音量で聴いていた。
 FMのリクエスト番組だった。
 去年はやった、山口百恵の『横須賀ストーリー』が流れてきた。
 ――この曲は、あのとき彼女が口ずさんでいた歌だ。
 景一はふと、ふた月前のことを思い出していた。
 半年近く付き合い、去年の十一月に別れたひとがいた。
 最後の日、彼女を送って帰る途中で、商店街を歩いているときのことだった。別れを感じていた彼女は、スピーカーから流れてくるレコードに合わせて、この歌を呟くように口ずさんでいた。

 七時――
 景一は『巡回中』の札をノブにかけてドアを閉め、巡回に出た。
 まず、二階にあるこのビルの管理会社からはじめる。
 いつものように、すでに退社していた。
 マスターキーを取り出して部屋を開け、点検した。消灯され、灰皿もきれいに処理されていて、異状はなかった。
 この会社の事務員たちは、いつも六時半前後に退社する。神奈川や千葉から通っている人たちが大半である。
 ――彼らは、ラッシュにもまれて出勤し、また帰宅する。家へ帰れば、相も変わらぬ家族たちとの、つつましい生活が待っているだろう。
 景一はエレベーターで最上階の十五階まで上がった。
 十五階は残業者が多くいたので、いいかげんに見ただけで通り過ぎた。
 十四階のエレベーターホールでは、数人の若い男女がたむろして「○○がいいわ」「いや××にしようよ」などと、居酒屋の名を言い合いながらエレベーターを待っていた。これから飲みに行くらしい。
 ――彼らは酔いにまかせ、上司や同僚の悪口に興じるだろう。女たちは化粧の臭いをプンプンさせながら、はすっぱな笑いと媚態で、男たちを誘惑するだろう。男たちは、うまくいけばこの女と寝れるかもしれないと考え、こっそりと胸のふくらみを盗み見ては、女を裸にした姿を想像してみるだろう……。そんな一時的な開放感に、いったい何の意味があるというのだ。そうして、死ぬまで飲み続ければよいのだ!
 十三階の正面はこの階の会社の受付で、ここは七時の巡回時に閉めることになっている。景一は灰皿を点検して消灯し、シャッターを降ろした。
 十二階を歩いていると、
「今日は遅くなりそうです」と、その階のテナントの社員から言われた。そういえば、残業者は多くいた。
 景一は、開け放たれたドアから見える社員たちの、机に向かう後姿に、彼らの生活の愚かさを見ていた。
 ひととおり巡回を終えて警備室にもどろうとしたが、一階の出入口で十四階のテナントの社員と出会い、全員退社した、というので、また十四階に上がった。
 点検を終えて警備室へもどろうとして、エレベーターを待っていた。
 そばに東向きの窓があり、夜景を見ていた。きれいな眺めである。
 窓の右手には、多彩な電飾に色どられた東京タワーの、空高く聳え立つ様が見える。眼下には、色とりどりのネオンや街灯が、窓いっぱいに散らばっている。
 景一はふと、その灯のもとで暮らす人々のことを考えていた。
 警備室に戻ると、『巡回中』の札を取りはずしてドアを開けた。
 いすに座り、ゆったりとタバコを吸った。
 ユラユラと昇る紫煙を見ていても、つい考え込んでしまうようだった。
 どれくらい前からのことだろう、気づいたとき景一は、人々の生活に興味をなくしていた。平凡な人生が、ごくつまらないものとしか思えないのである。
 妻を娶って子どもをつくり、金と地位を求めては、死ぬまで右往左往し続けてゆく……。景一は、そんな俗世間的な欲望には、吐き気をもよおすほどの嫌悪を感じる。
 ここのビルで働く社員たちを見ていても、そうだった。彼らは忙しさに愚痴をこぼしたりするが、仕事への情熱もあるようだし、けっこう生き甲斐を感じて働いている人が多いようだ。
 景一はそんな彼らを理解できずに、ただ嫌悪するだけだった。もし景一が彼らと同じ生活をすることにでもなったら、きっと長くは続かないだろう。
 景一には、彼らだけでなく、すべての人々の生活が、退屈きわまりなく、哀れなものとしか感じられないのだった。
 いつからそうなってしまったのかはっきりしないが、六年前の清(養父)の死を境にして、景一は徐々に変わっていった。
 その時景一は何かに目覚めた。それまで気づかずにいた現実を否応なく見つめ、直視したまま目をそむけられなくなった。清の命日が遠ざかるとともに、景一は死の哲学者となっていくのだった。
 養父の死――それは突然景一の家庭を襲った。
 景一が高校三年の十二月、大学への受験勉強に明け暮れしているころのことだった。
 二学期の期末試験が終わり、授業はほとんどなく、昼前に帰宅していた。
 二階の自分の部屋で数学の問題集を解いていると、階下で電話がやかましく鳴った。瞬間、背中を悪寒が走った。それは勉強に集中していたため、ふいに鳴り出した音に驚いたからであるが、それだけではなかった。
 応対に出た母の張りつめた声が下から聞こえてくる。電話はすぐに終わり、重い足どりで和子が階段を上がってきた。ドアを開けて、景一の顔を見るなり、細い声で、
「お父さんが事故に遭ったらしいの。これから病院に行ってくるから……」
 景一は母の青ざめた顔を、冷静な目で見ていた。
「わかった。早く行ったほうがいい。もうじき久美子も帰ってくる。二人で家にいるようにする。何かあったら、すぐ電話するんだ」
 景一の落ち着いた態度に、和子も気をとりなおして、しっかりした口調で、
「じゃあ出かけるから、あとのこと、お願いね」
 夕刻、和子の知らせで、久美子(妹)と病院へ急いだ。
 狭い病室に入ると、和子はワッと泣きだし、景一にもたれかかってきた。久美子もしくしくと泣きだした。部屋が急に暗くなったようだった。
 清は、ベッドの上に静かに横たわっていた。
「ほら、まだ暖かいのよ」
 和子はしゃくり上げながら清の手を取り、景一に触れさせた。死後間もないせいだろう、母の言うとおり、ほんのりと暖かかった。顔にあてられた白布を上げると、頬にはまだ赤みがさしている。今にも語りかけてくるようだった。
「景一、お母さんと久美子を、よろしく頼みますよ」と。
 じわじわと涙がにじんだ。
 血のつながりのない景一にも、清はいつもやさしかった。情のこまやかな、誠実そのもののひとだった。景一は心のなかで、去り行く清の後姿に呼びかけていた。
 ――あなたはいい人だった。善人であるがゆえに、つまらないことにも、いつもくよくよと悩んでばかりいた。今度こそ、まちがいなく、幸せになってくれ。
 通夜、葬儀と、あわただしく行われていった。
 初七日も過ぎ、その年は父の死とともに暮れていった。
 年が明けたころから、景一の態度が少しずつ変わっていった。
 人を避け、いつも独りでいたがるようになった。
 ガールフレンドの明日香や、級友たちの誘いを断ることが多くなった。彼らがやけに無邪気に見えた。いつのまにか彼らとの間に、大きな隔たりができたようだった。
 家庭においても、母や妹を避け、あまり口をきかなくなった。受験勉強を口実にして、部屋に閉じこもってばかりいた。
 不眠症に悩まされ、酒を飲むようになった。少量のアルコールに体じゅうを熱くし、不本意な眠りに就く。酒量はだんだん増えていき母に気づかれてしまったが、受験勉強で、気がたかぶっているからと言い訳していた。
 景一は清の死を境にして、勉強をまったくしなくなった。かりに参考書を開いていても、それは周囲の人たちを偽るためだった。
 景一は清の死に、何かを感じていた。以来、そのことが心をとららえて離さなかった。
 授業中も、級友たちと談笑しているときも、明日香と会っているときも――
 景一はふと口をつぐみ、深刻な表情で何かを凝視している。
 家庭においても、母と妹の睦まじい会話の横で、哲学者のように静かに食事を取り、いつの間にか階上へ消えていく。
 結局、景一は受験に失敗した。周囲の人々にとって、それは意外な結果だった。景一は彼らのアドバイスを無視して、K大学一校しか受けなかった。しかも二教科を白紙で提出した。景一はすでに進学を断念していた。
 母の反対をおして、逃げるように上京した。高田馬場にある予備校へ通うというのがその理由だったが、わざわざ東京にまで出てきた真意は、家族や友人から少しでも遠くへ離れたかったからである。景一はすでに、彼らを偽ることに疲れきっていた。
 予備校へ入学するつもりはまったくなかった。
 通うはずの予備校へは手続きすら取らず、ただその近くにアパートを借りたにすぎなかった。景一は人との接触を極力避け、ひたすら独りでいたいだけだった。
 そのアパートは三畳間の、台所すら付いていない粗末な部屋だった。この狭い空間を手に入れたその日から、景一は思索に落ちていった。その姿はいかにも性急で、数日間は日用品を揃えることも忘れていた。
 景一は清の死の姿に、死の実体を垣間見た。それは漠としたものであったが、清が命懸けで景一に与えた啓示のような気がした。
 景一は清の死から、過去の道雄(実父)の死と、菊子(祖母)の死を想起した。そして彼ら三人の死が一つになって、景一の前に立ちはだかった。それは不気味で、とてつもなく大きな怪物のようだった。
 景一は死の実体を見極めるためにそれと対峙し、一心に直視し続けるのだった。
 清の死より五年前の、景一が中学へ入学する年の春、菊子は交通事故に遭い、即死していた。道雄はそれより十年前のことだった。景一が三歳になった年の秋、やはり交通事故に遭い、即死した。遺体に縋り、泣き崩れる母の姿を、景一は映画のひとコマのように鮮明に憶えている。
 早暁、やかましく戸をたたく者があり、母はあわただしく出かけた。母と祖母の狼狽ぶりは尋常ではなく、それは父の身の危険を意味していた。
 柩に詰められ、白装束にまとわれた道雄の遺体は、どす黒くて、景一をひどく怖がらせた。
 悲惨な最期だった。それは、道雄の悲運をつぶさに物語るものであった。

 道雄の悲運は、すでに幼い日より始まっていた。
 道雄は筑後の片田舎で、農夫の長男として生まれた。四歳の秋、父は病死し、二年後、母も病死した。
 それから道雄は、叔母に引き取られた。
 叔母は貧しい農家に嫁いだひとで、しかも若い日に夫と死別していた。
 死んだ夫との間には、二人の子どもがいた。その上に道雄を引き取ることは、想像以上に困難なことだったろう。しかし彼女は、それら三人の子どもたちを、女ひとりの細腕で立派に育てあげていくのだった。
 道雄は小学校へ通うようになると、抜群の成績で周囲の注目を集める。中学への進学を望んでいたが、叔母の貧しさと、養子の身を考え、言い出せないでいた。
 ところが叔母は道雄の心を痛いほどわかっていて、むりを承知で進学させる。
 二人の実の息子たちは、小学校を出てすぐ働きに出ていた。
 道雄だけ進学させることを、親戚の者たちは激しく反対した。そのころ、中学へ進学する者は、村全体で数人程度だった。しかも、道雄を除けば、どこも裕福な家庭の子息だった。
 道雄は中学においても成績優秀で、いつしか高校、大学へと進むことを夢見るようになっていった。しかし家庭の窮状を考えると、それは不可能なことであった。むしろ、よくここまで尽くしてくれたと、叔母はもちろん、二人の義兄にも感謝するだけだった。
 道雄は中学を卒業すると県庁に勤めることになるが、以前から懐き続けていた検察官への夢を捨てず、独学で司法試験に挑む。いつしか胸を患い、出兵を免れた。そのまま終戦をむかえ、戦後の混乱期を過ぎて、ようやく生活にもゆとりができ始めた昭和二十七年の春、下宿先の大家の娘、和子と結婚する。
 やがて景一が生まれ、景一が二歳になった年の秋、司法試験の筆記試験に合格した。しかしその喜びも束の間のことにすぎなかった。間もなく結核が再発して、入院を余儀なくされる。幸いにも一年たらずで退院することができたが、道雄の前途には、すでに死の影が忍び寄っていた。
 再起を期して勉強し始めていた、退院して二週間後のことであった。親友と退院祝いの杯をくみ交わしたあとの帰り道、回り道を避けて線路上を歩いていた道雄は、走って来た列車に気づかず、そのまま轢死する。
 呆気ない幕切れだった。
 実父の死――それは悲劇そのものであった。

 祖母の菊子は山口に生まれ、やはり幼少のころ両親を亡くしている。
 そして、菊子も親戚に引き取られた。菊子のばあい、引き取られた先が長い間子どものできない夫婦だったせいもあり、溺愛された。
 その家庭は、山口でも有数の旧家だった。その町で女学校まで通ったのは、菊子一人だったそうである。
 菊子が女学校を卒業して間もない昭和三年、遠縁にあたる飯田用之介と結婚する。それと同時に、博多で店を開いた。用之介は腕のいい時計職人だった。
 飯田時計店は、たちまち博多で一、二をあらそう評判を勝ち取っていった。
 やがて和子が生まれ、和子が八歳になった年に、用之介は心臓病で急死した。菊子いまだ二十八歳の女盛りだった。
 夫亡きあと、店の経営など何もわからぬ菊子は、番頭の橋爪に頼るしかなかった。
 ところがその橋爪は、大金を持ち出したまま行方不明となった。こうなると菊子はどうすることもできず、店を売り払い、博多のはずれで下宿屋を始めた。
 幸いにして戦災を免れ、混乱期を過ぎて和子の結婚をむかえる。
 そして四年、道雄の死である。
 道雄の三回忌をつつがなく終えたころ、先方の強い要望で和子は再婚する。相手は幼馴じみの清である。
 清は初婚だった。清は学生のころからずっと、和子を思い続けていたようである。
 再婚にあたり、いちばん心配なのは景一のことだった。しかし、景一の人なつっこい性格と、清の誠実さでそれも霧消された。
 やがて久美子が生まれた。菊子は、目まぐるしい人生のなかで、二人の孫の成長を唯一のたのしみとしていた。しかし、そんな菊子のささやかな幸福も長くは続かなかった。
 景一が中学へ入学する春のことだった。菊子は買い物に行く途中で、横断歩道を渡っていたにもかかわらず、暴走車に跳ねられ、即死した。
 菊子五十六歳、悲惨な最期だった。
 翌年、和子は下宿屋を売り払った。それは、辛い過去を忘れ去るためだった。新たに家を建てた。今住んでいる家がそれである。
 そして五年、今度は清の死である。

 清は地元の雑貨屋の二男に生まれ、小学生のころ母親は病死した。父親の再婚により、母親のちがう弟妹が四人できた。複雑な家庭のなかでも、弟妹思いのやさしい兄であったようである。
 旧制の中学校へ通っているころに終戦をむかえ、卒業してほどなく、ある大手の建設会社に勤め始めた。現場一筋で勤続二十数年、事故に遭ったころは、会社においても重責を担う立場になっていた。
 十二月にもかかわらず、やけに暖かい日の午後だった。
 工事現場での作業中、操作を誤ったのだろう、クレーンで運んでいた鉄板が落下し、運悪くちょうど下を通りかかった清のヘルメットを強打して地面に落ちた。清は首の骨を折り、病院に運び込まれた時はまだ苦しい息づかいをしていたが、手だてを施す暇もなく、逝ってしまった。
 清はまだ四十二歳の若さだった。

 景一にはわからなかった。
 彼ら三人の死が、すべて事故死であるのが不気味だった。
 彼らは病死でもなく、老衰死でもなく、なぜ事故死なのか。
 あんないい人たちが、どうしてこんなに悲惨な最期を遂げなければならなかったのか。
 彼らの生い立ちをたどると、明らかな共通点があった。
 両親、あるいは片親を幼少のころに亡くしている。菊子と道雄は両親を、清は母親を。菊子はそのうえ、夫にまで先立たれている。
 景一の家系は薄命の人たちが多い。それは偶然かもしれない。だが、偶然が重なれば、必然となるのではないのか。ならば、死にも一定の法則があるのか。運命や宿命に縛られ、逃れることができないのだろうか。
 耳をすませば、彼らの悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。
 景一は、一心に思索し続けた。
 それは言語に絶する、孤独と沈黙の時間だった。

 三ヵ月が過ぎた。
 景一は限界を感じ始めていた。
 いまの景一のように性急に思索を凝らしてみても、死の実体を見きわめることはできないだろう。問題があまりにも大きすぎた。
 このままいまの生活を続けたならば、近日中にまちがいなく発狂するだろう。
 七月になり、梅雨明け間近のころだった。
 三畳間の狭苦しさを脱するためと、気分転換をかねて、落合へ引っ越しした。落ち着いてすぐ仏壇を買った。窓の上に棚を作り、そこに安置した。三人の遺影を小さな写真立てに入れ、祀った。季節の花を添えた。あじさいの、紫の花弁がきれいだった。
 こんなことをしても、何の意味もないことはわかっていた。だが、何かをせずにはいられなかった。その行為を愚かだと自嘲してみても、いつか端座し、掌を合わせて、彼らの冥福を祈っていた。
 額に収まった、清の屈託のない笑顔が悲しかった。じわじわと涙がにじんだ。一筋、二筋と頬を流れた。
 景一は、彼らの死を、断じてむだにしてはならないと、わが胸に強く誓っていた。

 深夜である。
 ここの社員たちは、ずいぶん前に全員退社していた。ビル全体で明かりの点いているのは、おそらくこの部屋だけだろう。
 景一は警備室の机に向かい、腕組みをしたまま前方を凝視していた。
 ――おれの生活のすべては、隅々にいたるまで、死の影を引きずっていた。おれの青春は、死の怪物に、さんざんに踏みにじられてしまった。その歳月には、いったい何の意味があったのだろう。
 清の死から、もう六年以上経っていた。その間、得るものは少なく、失くしたものばかりだった。
 そして気づいたとき、景一は普通の生き方ができなくなっていた。
 平凡な幸福が退屈で、ごくつまらないものとしか感じられない。すべてに否定的で、破滅的な考え方に陥ってしまう。
 人には、いつまでも生き続けたいという生存欲があると同時に、死への衝動もある。種族の保存と繁栄を望むと同時に、すべてのものの破壊と死滅を願う心が、生命の奥深くに潜んでいる。
 景一のばあい、あらゆる機会に、後者のいのちを育んできたといえるだろう。
 都会の喧騒。発情した雌猫のような女たち。それに群がる浅ましい男たち。耳目を逆撫でする低俗な音と映像。大衆の卑しい欲望を煽る無責任なマスコミ。権力欲にとりつかれたハイエナのような政治家の群れ。それらを利害や知名度で選出する無知な国民……。
 大衆は衆愚と化し、巷は愚行に満ち満ちていた。景一は今日まで経験したあらゆる機会に、人の愚かさを、いやというほど思い知らされたのであった。
 そして、そんな時も景一は、すべてのものの背後に、死の影を見い出していた。
 人は死の恐怖から逃れるために、刹那の快楽に溺れていくのだ。
 あるいは、人は死を前にして、すべての存在や、本能的な欲望までも、無意味で儚いものに感じて、いつか底知れぬニヒリズムへと落ちてゆくのだ。
 死は、常に眼前にある。手を伸ばせば届く所に、死はいつも存在している。常に死を意識した緊張感で生活すること――それが最高の生き方だと景一は考えていた。

 二時間近く横になっていたが、眠れなかった。
 景一には、こういうことがときどきあった。結局眠るのを諦め、ベッドから起き出して、またいすに座った。タバコを吸っていると、頭がスッキリと冴えてきた。
 五時半になろうとしていた。そろそろ日が昇るころである。
 景一は、このビルから、夜の明けゆく光景を一度見てみたいと思っていた。だが今日までできなかったので、いいチャンスだと思った。
 エレベーターで最上階へ上がった。
 十五階の、出てすぐ脇にある窓は、広くて東向きである。ここから夜明けを眺めるつもりだった。
 ほどよい広さの窓枠に乗っかって、腰をおろした。
 目を上げると、窓いっぱいに灯が点在している。
 耳をすますと、ザーッという、水の流れのような音が聞こえてくる。
 それは車の走る音だった。左手に見える広い道路は、青山通りである。こんな時間にも、車は断続的に流れていた。
 車の流れる音は、潮騒の音に似ていた。その音を聞いていると、過去のことが懐かしく思い起こされた。
 それは去年の秋まで勤務していた、夢の島にあるヘリポートのことだった。景一はそこを気にいっていたが、二人勤務であるのがいやだった。一人でできる仕事であれば、いつまでも勤めていたにちがいない。
 そこの社員たちは、夜八時までには決まって全員退社していた。
 そのあと景一は警備室で読書し、相棒の男は食堂にあるテレビを見て過ごしていた。
 十二時前後に、相棒は床に就く。今度は景一が食堂で読書する。早々と相棒は大きないびきをたて始める。その音は食堂にまで届いてくる。いびきがうるさくて、景一はいつも明け方二、三時間横になる程度だった。
 真冬の早朝――
 景一は、毛布のようにぶ厚い防寒服をきて、外に出た。今日のように、よく晴れた寒気の厳しい日だった。
 ヘリポートを照らす照明はあるものの、あたり一帯は暗黒にちかい暗闇に包まれていて、シイーンと静まり返っていた。周囲には人家などまったくないため、自然の音以外耳に届くものは何もなかった。
 耳を澄ますと、ザーッ、ザーッと潮騒が聞こえた。数百メートル先は海である。その音を除けば、すべてが静寂の中に寝静まっていた。
 こんな所が、いまなお存在していることがうれしかった。この静寂、これこそ真実景一の求める世界だった。
 サーチライトを天空に向けた。光の帯が数十メートル続き、先端は宇宙に吸い込まれていく。
 東京にも空はあった。冬の空は冴えていて美しい。満天に散らばる星々が、囁くように瞬いている。
 夜が少しずつ色づいてきた。東の空が映えて青く変色し始め、房総半島の山々が黒く浮き上がってきた。
 さらに空は紅色、黄色、水色、藍色、紫色と虹のように多彩な色どりを描き出し、時をおって徐々に明るさを広げていく。
 やがて正面にある山の頂きが金色の光彩を放ちながら、火のように左右に燃え広がって、そこから太陽が頭をもたげてきた。みるみるうちに巨大な全容を現し、無数の光の矢を八方に放ちながら、力強く昇り続けていく……。
 暗黒は死、黎明は生であった。
 死から生への飛翔――それが夜明けの瞬間だった。
 誰人も顧みる者はない。この広い地球上で、見つめるのは景一ただ独りだった。
 強い北風が吹きつけて、頬を突き刺すようだった。ブルブルと震えながら佇み、目を凝らしていた。今日と同じように。十五階の広い窓から望む大空を見つめ、景一はあの日のように胸に迫るものを強く感じていた。
 林立するビルの背後で、明るくなった空が、さらに青空を広げようとしていた。行き交う車の向こうで、孤独な太陽は、今まさに姿を現そうとしていた。高いビルや家並がそれを遮っていた。しかし、彼はそれらを悠々と見下ろし、紅の翼を地平線上に限りなく広げて、確実な飛翔で近づいて来る。
 静寂、澄んだ鳥の声、遠くに聞く潮騒。無限の空間に広がる生と死のドラマは、流れる車と林立するビルの背後で、今も同じく展開されていた。
 男と女の愛憎も、国と国との争いも、すべてこの静寂に呑み込まれていた。
 あらゆる生命体の歓びと悲しみを乗せ、いま大地は朝を迎えようとしていた。
 かつて景一はすべてが許せなかった。
 よちよちと歩く幼子。はしゃいで走り回る児童たち。笑いさざめく女子高生。いそいそと寄り添う恋人たち。赤子をあやす美しい人妻。風格ある白髪の老爺。――それらすべてを不潔な存在として否定し、彼らの悲惨な死滅を願った。
 しかし、いかに否定し去ろうとしても、できないものがある。それがこの感動だった。
 眼前に広がる人智を越えた壮大な景観は、景一に感動を与えるとともに、すべての存在の肯定を許した。
 日出という宇宙の片隅に起きる自然現象は、景一に一個の生命体としての自覚を呼びさますとともに、日ごろの虚無的な自分を忘れさせてくれた。
 朝焼けした空は、日没の光景に似てはいたが、まったくちがった印象だった。空気が乾燥しているせいだろう、高い空はあくまでも青く、東の空はあくまでも紅かった。鮮烈な色彩に、目が痛むほどだった。
 大小のビルが群立する背後に青と紅の鮮やかな空。広大なパノラマであり、一幅の大画であった。
 やがて霞が関ビルの脇に見える遠い山のあたりが、きわだって紅く輝いてきた。しばらくすると突然東京湾が火のように真っ赤に燃え上がり、背後の山の頂きから、金色の太陽が頭をもたげてきた。見る間に全容を現し、強烈な光を放ちながら勢いよく昇っていく……。
 矢のような光が目に眩しかった。
 景一は陽光を全身に浴びながら、無限に広がる都会の朝の光景を、飽きずにいつまでも見守っていた。


第二章

 景一は、仕事を終えてアパートにもどると、すぐに布団を敷き、倒れこむように横になった。昨晩、一睡もできなかったため、すぐに眠りに落ちていった。
 一度三時くらいに目を覚まし、起きようとしたが、また眠ってしまった。
 再び目覚めたときには、すでに夜になっていた。
 そのままぐずぐずと布団のなかにいて、寝返りを何度もうったりていると、ドアをノックする音がした。けだるそうに起き上がりドアを開けると、このアパートの管理人だった。景一に電話だそうである。
 景一は急いで服を着替え、下に降りていった。
 管理人室の前にあるピンク電話の受話器を取り、
「もしもし……」というと、意外にも若い女性の声で、
「もしもし、庄司さんですか。わたしよ、わかる?」
 景一は一瞬とまどっていたが、そばでする声に、だいたい察しがついた。電話のそばで聞こえる笑い声が、母の声だとわかったからである。おそらく妹の久美子が、声をつくって景一をからかっているにちがいない。
「なんだ、久美子か」
「アレッ、ばれちゃった。よくわかったわね。きっと、だれかさんと勘違いすると思っていたのに」
「こいつ」
「まじめに仕事してる?」
「まあな」
「この春で、わたしも高校三年生になるのよ、早いでしょう?」
「もう、そんなになるのか」
「女っぽくなったわたしを、ひと目景ちゃんに見せてあげたいわ、なぁんちゃって」
「ふふっ、それはさぞ、きれいになったんだろうな」
「そのいい方って、ばかにしているんじゃないの」
「そんなことはない、いったとおりの意味だ」
「そう、じゃあ許してあげる。……お母さんにかわるけど、お母さんのいうこと、ちゃんときかなきゃだめよ」と言って、ひとりで笑い、
「ちょっと待っててね」と、母にかわった。
 母とは先週、話しをしたばかりだった。事情があり、景一は長い間母にも連絡先を教えず、二年ちかく経っていたのだった。
「もしもし、景ちゃん。あなた、正月も帰れなかったんだから、近いうち休みでもとって、帰ってくるようにできないの?」
「先日もいっただろう。人手がたりなくて、まとまった休みが取れないんだ」
「そんなことばかりいって、ずいぶん長いこと帰ってきてないじゃないの。そろそろ顔忘れられるわよ、みんなから」
「しょうがないだろ」
「できたらでいいから、考えてみてちょうだい」
「わかった」
「小説のほうは、うまくいってるの」
「まあな」
 景一は、自分の現状を母に納得させるために、小説を書くつもりで勉強している、と偽っていた。結局、大学に進学することもなく、かといって定職に就くつもりもない状態を続けるには、それくらい思い切った嘘をつくしかなかった。
 母は、景一が進学を断念したのは、家庭の経済状態を考えてのことと思っていたので、そんなことは心配しないで、どこでもいいから大学へ行くようにと、しつこくいっていたが、景一の思うようにさせるしかないと、いつしか諦めたようだった。
 また母は、景一のいう文学への志が、はたして真意なのかどうか、いまだにはかりかねているようであった。
 景一には、腹さえ決まれば、文学であれ、音楽であれ、何でもやってみせる、という自信は強くあった。しかし、いま現在は、何の見通しも、目標もたてられないでいるのだった。
 母は心配そうに、
「引っ越ししたいっていってたけど、ずいぶんかかるんでしょう。だいじょうぶなの、お金」
「なんとかな」
「自炊するかもしれないっていってたけど、ちゃんと作れるの。あなたが料理するなんて、想像しただけでおかしいわね。お母さんにも一度つくってみてよ、帰ってきたときにでも」
「そうだな」
「いま、めずらしい人が遊びにきてるのよ。だれだと思う。……じゃあ、かわるわね」
 また受話器がわたされ、
「もしもし、元気か?」
「ほう、だれかと思ったら、藤田じゃないか。おまえこそ元気か」
 藤田は、景一の中学からの親友である。地元の大学に進学したが中退し、いまはミュージシャンを目指している。
 藤田は懐かしそうな声で、
「久しぶりだなあ。おばさんもいってたけど、たまには帰ってこないと、おまえの存在すら忘れられるぞ、そのうち」
「そうか」
「じつはおまえに話したいことがあって、連絡先を聞きに来たら、せっかくだからみんなで声を聞こうということになったわけだ」
「なるほど」
「ほんとに帰ってこれないのか? ゆっくり話したいこともあるし、聞いてもらいたいことは山ほどある」
「そうだな、……でも、ちょっとむりかな」
「そうか、残念だな……」
 景一は二年前の正月以来、帰省していない。休みが取れないからというのは言い訳で、じつは帰省する心境になれないのだった。それにいまは引っ越しを予定していて、まったく余分な金がなかった。
 藤田からそう言われると帰ってみたくなったが、帰るとなると母に送金してもらうしかなく、それは極力避けたいと考えていた。養父亡きあと、家庭の経済状態は、決して楽ではなかったから。
 藤田は、何か内密な話でもあるようなようすである。母たちがそばを離れたらしく、声を少し低くして、
「ここではあまりゆっくり話ができないから、てみじかに要点だけを話すことにする」と言って、こんなことを話し始めた。
 それは明日香のことだった。
 これはひとから聞いたことだから確かなことではないが、と前置きして――
 一年くらい前から、ある男が明日香のあとを追っかけていて、いまでは結婚を迫っている。以前にも明日香に近寄ってくる男は何人もいたが、今までは何事もなく終わったようだ。しかし、今度はようすがちがう。
 今度の男にも、明日香はあまり気がすすまないようだったが、両親がその男にほれこんでいて、説得し続けた結果、いまでは明日香もその気になっているらしい。
 このままだと、明日香はその男と結婚することになるだろう。それでもいいのか。
 おれが思うに、いまでも明日香は、きっと景一のことを思い続けているはずだ。まだ間にあうから、決めるんだったら今のうちだ。
 そこまで話して藤田は、
「おまえが望むのであれば、彼女に本心をきいてみたいと思っているが、どうかな」と、景一にきいた。景一はちょっと思案するようだったが、
「気持ちはありがたいが、その必要はない」
「そうか……」
「いろいろ心配してくれて、ありがとう」
「いや、たいしたことはできないが……。いまのおまえにとっては、それどころじゃないのかもしれないが、たいせつなことだから、真剣に考えてみたほうがいいんじゃないのか」
「そうだな」
「気をおとすなよ。とにかく、おまえしだいで、まだどうにでもなるはずだ。もし、気が変わったら、連絡してくれ。なるべく早いほうがいいと思うが」
「わかった」
「じゃあ、長くなるから、……そのうち必ず電話でもしてくれ」
「わかった。……じゃあ、また。元気でな」
「おまえこそ、体に気をつけろよ」
 受話器を置くと同時に、景一の顔は、深刻な表情に変わっていた。
 景一は、明日香が二十三歳の若さで結婚問題に直面するなどとは、考えてみたこともなかった。思いもよらぬことであり、体がグラグラ揺れるほどの、強烈な衝撃だった。
 景一は、明日香との恋は、すでに終わったものと思っていた。いや、そう思い込もうとしていたようであるが、しかし、それはまちがっていた。藤田の話を聞いていて、痛切にそう感じた。
 景一は、重い足取りで部屋にもどった。
 何もする気になれず、また布団の上に横になり、そのまま深く考え込んでしまうようだった。

 景一が初めて明日香に出会ったのは、十八歳になる春のことだった。
 そのころ景一は、藤田や気の合った仲間たちとロックバンドを組み、街のはずれにある広場でよく練習していた。評判は良く、いつもある程度の聴衆が集まっていた。
 景一が高校三年になった五月、それは爽やかな風が吹く、土曜日の午後のことだった。
 いつものように広場で練習していると、藤田のガールフレンドが数人の少女を連れてきて、すぐそばで見ていた。彼女たちは下校の途中に立ち寄ったらしく、皆セーラー服姿だった。そして曲が終わるたびに、華やかに拍手してくれていた。
 何曲目かの演奏を終えて、一休みしているときだった。景一はその中のひとりの少女に、熱い視線を感じた。
“誰だろう”と見つめると、彼女はそっと目をそらし、風になぶられる長い髪を、片耳にかきあげていた。
 汗ばんだ景一の肌に、吹く風は爽やかだった。
 景一はギターに目を落とし、次の曲の一節を弾きながら、ふとまた目を上げると、彼女もこちらを見ていた。一瞬彼女は、こぼれるように笑い、すぐまた恥じらうように視線をそらした。
 景一は、その笑顔に心を奪われた。愛くるしい眼差しに、感動的な恋を覚えた。
 このときの“そよ風のひと”――それが水森明日香だった。
 数日後、藤田に彼女への思いをうちあけると、
「また、おまえの病気が始まった」と、ひやかされたが、すぐに電話番号を聞き出してくれた。
 さっそく翌日、電話してみた。明日香は、ひどく驚いていた。会ってほしいと言うと、ためらっていたが、なんとか承諾してくれた。
 待ち合わせの喫茶店に、明日香は少し遅れて来た。
 景一を見つけると、はにかむようにほほえみ、
「遅れちゃって、ごめんなさい」と言って、ペコンと頭を下げた。
 長い髪が揺れ、艶やかだった。白いブラウスにピンクのベスト、ジーンズのミニスカートに長く伸びた白い脚、それらすべてが輝いて見えた。
「いや、いいんだ。おれのほうこそ、むりに呼び出してすまなかった」
 景一は募る思いを一気に告白するつもりだったが、予定を変えて、
「あの日の演奏、どうだった?」と、まずバンドの印象をきいてみた。
「上手だわ、以前よりも洗練されたみたい」
「以前て、いつのことを言ってるの」
「去年の文化祭に、わたしも行ったの。ビートルズの『ホワイル・マイ・ギター・ゼントゥリー・ウィープス』あの演奏すばらしかったわ」
 去年の秋、明日香は景一の高校の文化祭に来たらしい。体育館のステージでの景一たちの演奏に、うっとりと聴き入っていたという。
 どうやら彼女はビートルズが好きで、なかでもジョージ・ハリソンの曲がお気に入りのようだった。
「ジョージはいいね。『サムシング』や『ホワイル・マイ・ギター・ゼントゥリー・ウィープス』は、聴けば聴くほど味が出る。名曲の中の名曲といえる」
 景一がジョージのことを褒めると、明日香は自分のことのように喜んでいた。
 ジョージ・ハリスンは、センスのいいミュージシャンだと景一は思っていた。その彼の才能を知る明日香もまた、細やかな感受性の持ち主にちがいない。
 景一は、出会った時の明日香のようすから、彼女は自分に興味をいだいているにちがいないと思い、きっとこの恋はうまくいくと信じていた。一抹の不安がなかったわけではないが、たのしそうにしている明日香を見ていると、それも消えていった。
「これからも、ときどき会ってほしいんだけど」
 しばらくして景一は切り出してみた。すると明日香は急に顔をくもらせ、何もこたえない。明日香の意外な反応に、景一はひどく狼狽した。
 重苦しい沈黙のあと、景一はがっかりした口調で、
「おれのこと、嫌いなのか?」
「そんなことはないわ」
「じゃあ、好きな人でもいるの」
「そうじゃないのよ、でも……」
「でも、何だよ」
「わたし、特定のひとと付き合うの、苦手みたいなの」
「何だ、それは」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい、じゃあないんだよ、もっとわかりやすく説明してくれ」
「だから……」
「何だよ」
「追いつめるみたいに言わないで」
「そんなつもりはない」
「……」
 明日香は困った顔をして黙っていた。
「特定の人だけでなく、誰とでも気楽に付き合いたいという意味なの?」
 景一がしかたなく言うと、明日香は首を横に振った。
「じゃあ、やっぱりおれが気に入らないんだろ。はっきり言ってほしいんだ。辛いけど、スッキリするから」
 景一が率直に言うと、明日香はまじめな表情で、
「わたし、庄司さんのこと好きよ」と、キッパリと言った。そして、その言葉の強さに驚き、ポッと顔を染めた。
 景一はキョトンとしていたが、
「君はおもしろいひとだなあ、言っている意味は、さっぱりわからないけど」と言って、うれしそうに笑った。明日香もつられるように笑った。
 それから二人は、ボーリングをした。明日香は、ちょっとしたことでもよく笑った。別れ際、景一が差し出した手に明日香は軽く触れ、
「今日はたのしかったわ」と、しみじみと言った。景一は明日香の態度が、もう会うつもりがないようで不安だったが、
「じゃあ」と手を上げ、その日は潔く別れた。
 数日が過ぎた。
 景一は、あの日のことを、何度も思い返していた。甘酸っぱく、それは片思いの味だった。
 明日香の気持ちがわからなかった。
 悩んだすえ、多少やけになって、また電話してみた。
「もしもし、庄司ですが」
「あら、先日はどうも」
 明日香は、景一の電話がうれしかったようだった。景一は明日香の心が、ますますわからなくなった。
 それから二人は、週に一度どこかで会うようになった。それは翌年の春、景一が上京するまで、一年近く続いた。
 二人の関係を、仲間たちは羨ましがっていた。彼らには、二人は仲の良い恋人どうしと映っていたようだった。しかし景一には、景一の思いに比べると、明日香は醒めているように感じられた。明日香にとって景一は、あくまでもボーイフレンドにすぎないような気がするのだった。
 景一は故郷を去ると同時に、明日香のことも過去のこととかたづけていた。ごくまれに思い出すことはあったが、そのたびに片思いの切なさが伴われるのだった。

 景一が東京に出て一年ぶりに帰省した、四年前の春のことである。実家でのんびり過ごしているとき、意外なことがあった。
 電話が鳴り、応対に出た久美子が、下から大声で景一を呼んだ。
 降りて行くと、久美子はニヤニヤして景一を見ている。
「変な女だなあ」と景一は久美子に言って、受話器を取った。
「もしもし」
「お久しぶり、わたしのこと、おぼえてる?」
 懐かしい声である。
「えーっと、その声は、ひょっとすると、あなたですか」
「ふふふっ」
 まちがいなく、明日香の声である。
「うーん、本当に久しぶりだなあ」
「一年ぶりかしら」
「そうだな」
「お元気でした?」
「まあな」
「一度手紙出したのよ」
「いつのことだ、おれは見てないな」
「去年の七月ころなんだけど、もどってきちゃった」
「引っ越ししたのが、ちょうどそのころだ」
「そうだったの」
「どんな手紙だったんだ? 読みたかったな」
「ふふふっ、いじわるなのね」
「いいからいってみろよ、笑わないから」
「いやよ、そんなの」
 明日香は地元の大学に通っていて、いまは春休みである。景一は福岡にいる間、数回明日香と会うことになった。
 そしてその年の八月、明日香は約束どおり、景一のもとへ、上京することになるのだった。

 二十歳の夏――それは二人にとって、忘れられない季節となった。
 列車から降りてくる明日香を見つけ、景一が近づいて行くと、
「わたし、やっぱり、来たのね」と明日香は、しみじみと言った。懐かしさと再会の歓びが胸に溢れそうなのに、それが素直に言葉にならない。もどかしくて、チグハグな会話が繰り返されていった。
 明日香の滞在中の宿として、明日香の高校時代のクラスメイトの部屋を借りていた。彼女は武蔵野にある大学に通っていて、今は夏休みで帰省している。明日香が東京にいる間、自由に使っていいと言ってくれて、鍵も預かっている。
 アパートは杉並にあり、略図を書いてもらっていた。
 ひとまず明日香の荷物を彼女の部屋に置き、新宿のパブで時を過ごした。
 予期せぬことであったが、飲むほどに、二人は男と女になっていった。
 帰り道――
 強い風が明日香の白いブラウスに吹きつけ、胸を浮かび上がらせた。赤いスカートが風をはらみ、フワリと揺れた。肩を抱き寄せると、明日香は景一の肩に軽く頭をのせた。路地の片隅で、唇をかさねた。
「今日は、おれの部屋に泊まるんだ」と強く言う景一の言葉に、明日香は俯いたまま小さくうなずいた。部屋に入ると、転ぶように横になった。二人にとって初めての夜が、熱く、嵐のように過ぎていった。

 深夜だった。
 暑さのせいで、景一は目を覚ました。
「ウーッ」と低い声を出し、両手を伸ばした。すると背中を向けていた明日香が、びっくりしたように振り返った。
「なんだ、起きていたのか」
 といって、景一は明日香を見つめた。泣いていたのだろうか、ほの明かりに照らされた明日香の頬が、濡れて光っていた。
「どうしたんだ」と、景一が心配そうにきくと、
「なんでもない」と、明日香はむりにほほえんだ。
 景一には意味がよくわからなかったが、それ以上きかないほうがいいような気がして、口をつぐんだ。
 甘い沈黙がつづいた。
 二人の体の上を、開け放たれた窓から夜気が流れ込んできて、快かった。
 どこかで鳴る風鈴の音が、涼しげに聞こえていた。
 しばらくして、
「ねえ」と、明日香が声をかけた。
「なんだ」
「いつか言ってた手紙のこと、おぼえてる?」
「手紙……?」
「ほら、わたしが去年送ったって言ったら、読みたかったって言ってたじゃない」
「ああ、思い出した」
「どんなこと書いていたか、話してみましょうか」
「うん」
 明日香が体を寄せると、景一の胸に長い髪がハラリと落ち、明日香の甘い香りがした。景一は、乱れた前髪を指でそろえてやった。
「あなたは、わたしのこと、冷たい女と思っていたんでしょう?」
「そんなことはないけど、おれに比べると、冷静な感じだった」
 それはちがう、と明日香は言い、こんな話をつづけた。
 明日香が景一の目に、ときに醒めて映ったのには、わけがあった。それは、明日香が中学生のころの、辛い経験に起因していた。
 明日香が中学二年の二月のことだった。
 一年先輩の柏木という男が明日香を呼び出し、交際を申し込んできた。明日香はとまどうだけで断ることもできず、柏木の言うままに付き合うことになった。
 そのころ明日香は、バレー部に在籍していた。柏木は、男子バレー部のエースだった。顔は普通だが、スマートで頭が良く、女生徒にも人気があった。
 柏木は卒業してT高校へ進学した。その後も二人は、たびたび会っていた。柏木が明日香にも同じ高校に進学してほしいと言うので、明日香もそのつもりで、一生懸命勉強した(T高校は、地元ではトップクラスの高校である)。
 その年の秋ごろから、柏木の態度が少しずつ変わっていった。
 そして十一月の雨の降る寒い日の夕方、二人は別れた。柏木は高校のクラスメイトにのりかえたらしかった。
 明日香の受けた傷は深かった。失恋というより、裏切られたという感じだった。
 それから明日香は、ちょっとした男性不信に陥っていったようである。それが原因で、進学も女子高にした。
 景一のことは、ずいぶん前から千恵子(藤田のガールフレンド)から聞かされていた。千恵子の語る景一は、おもしろくて、ユニークで、明日香はだんだん興味をいだくようになっていった。
 景一が声をかけてくれたとき、じつは、すごくうれしかった。だけど、過去のあやまちを繰り返したくないという気持ちが強くて、なかなか素直になれなかった。
 明日香は、景一が上京したことで、景一も柏木と同様に、明日香を捨ててしまったような気がしてならなかった。
 しかし明日香の心境は、柏木と別れたときとは、まったくちがっていた。
 そして思った。本当は柏木のことを、あまり好きではなかったんだ、と。どこから見ても優等生で、なんとなくものたりなかった。
 しかし、景一はちがった。八方破れで、めちゃくちゃなんだけど、いつもいっしょにいてたのしかった。明日香にとって景一が、いかにかけがえのないひとであるか、会えなくなって初めてわかったのだった。
 明日香は、ここまで話して口をつぐんだ。
 快い沈黙だった。
 しばらくして景一は、
「そんな内容の手紙だったの?」と、きいた。
「そう」
「それは悪いことをした」
「もういいのよ、でも……」
 明日香はじっと景一を見つめ、小さな声ではあるが、強い口調で、
「でも、わたしを裏切らないでね!」
 景一は感動した。何もこたえず、ただ乱暴に明日香を抱きしめた。目覚めては何度も抱き合い、浅い眠りに就くのだった。

 明日香は東京滞在を、長くても五日間と決めていた。
 公園を歩き、ボートを浮かべた。高層ビルに昇り、都会の夜景を飽きもせず眺めた。映画や演劇を見て過ごすうち、瞬く間に四日目の夜をむかえていた。
 景一は寝転んだまま、夕食のあとかたづけをしている明日香の後姿へ、
「やっぱり海へ行こう」と、唐突に言った。
 先日景一が同じことを言うと、明日香はいやがっていた。景一もいったんは諦めたものの、諦めきれないようである。
「えーっ、うみい?」
 明日香は、炊事の手を休めてちょっと振り返り、いかにもいやそうにこたえた。
「明日、日帰りで行ってこよう。そうすれば、あさって福岡に帰れる」と、景一が説得しても、なかなか同意しない。わけをきくと、
「ほかに行きたい所もあるし……」と、歯切れの悪い返事である。
「それでもおれは、海が見たいんだ」と景一が言うと、明日香は困ったような顔をしただけで何もこたえず、またもとのように食器を洗い始めた。
 景一には、明日香のいやがるわけがわからなかった。
 上京する前に訪れた大阪の友だちとは海へ行く予定だったらしく、水着も持ってきている。結局、天候のせいで行けなかったようだ。ならばなおのこと、明日香こそ行きたいはずではないのか。
 用を終えてテーブルについた明日香へ、景一は執拗に問い質した。
「どうしてなんだ。おれと行くのが、そんなにいやなのか。はっきり言ってみろよ」
 怒ったように言うと、明日香はうなだれて、小さな声で、
「だって、恥ずかしいんだもん」
「どういう意味だ」
「ばか!」
 景一がキョトンとしていると、明日香はモジモジしながら、
「わたし、思いきってセパレートの水着にしたの。でも、まだ誰にも見られたことがないから……」
 景一は、思わず噴き出し、
「そんなことだったのか。……だいじょうぶだ、ジロジロ見たりしない」
 景一がからかうように言うと、明日香は顔を赤く染めていたが、それ以上反対はしなかった。
 こんな関係になってもなお、水着姿を恥じらう明日香がおかしくて、景一はまた、さもおかしそうに笑った。明日香はすねたような顔を、ますます赤くしていた。
 込み上げるようなおかしさが過ぎ去ると、景一は急に明日香がいとおしくなった。そして、
 ――彼女はいつまでも、少女のような清らかさで、生きてゆくにちがいない、と思ったりした。
 行き先はすぐに決まった。
 湘南は混んでいるから、房総半島の南端まで下ってみることにした。そこまで行けば、水もきれいだろうと思われた。
 翌日、朝六時に慌ただしく部屋を出た。内房線の千倉駅に着いたのは、十時半ころだった。改札口を出ると、遠く海の匂いがした。タクシーを走らせた。運転手の勧めで、K海水浴場で泳ぐことにした。
 車を降りると、むせかえるような磯の匂いが二人を迎えた。広がる視界と、清々しい潮風に、
「やっぱり、来てよかったわね」と明日香は、はればれとした笑顔で言った。
「そうだな。やっぱり、海だな」と景一は、遠くを見つめてこたえた。
 先に着替えをすませた景一は、少し遅れて売店から出てきた明日香を見かけると、昨日したばかりの約束をやぶり、ついしげしげと見入ってしまった。
 赤いビキニの水着から、露わになった白い肌が眩しい。小高い胸、キュッと締まったウエスト、スラリと伸びた長い脚。ちょっと痩せぎみではあるが、申し分のないプロポーションだった。
 景一の視線に気づいた明日香は、
「なによ、ジロジロ見ないって、約束したじゃない」と言いながら体をすくめ、両腕で胸のあたりを隠した。景一は苦笑しながら、
「そんなおぼえはない」と、とぼけていた。

 ゴムボートを借りて沖まで出ることにした。
 昼前ではあったが、日差しは強く、雲ひとつない青空が広がっていた。潮風が爽やかである。都会にはない涼風だった。
 水につかると、ヒンヤリと冷たかった。
 人の多い岸辺を離れ、赤い旗の手前でボートを止めると、景一はパシャンと音をたてて背中から海に落ちた。背泳ぎで十メートルくらい泳いだところで明日香に声をかけ、音をたてて沈んだ。深さを測るらしかった。まっすぐ伸ばした指先まで見えなくなった。瞬間明日香は、不安な顔つきで景一の沈んだあたりを見ていた。
 すぐに景一は勢いよく顔を出し、荒い息づかいで、
「けっこう深いんだな、三メートルはありそうだ」と言いながら立ち泳ぎをしている。それから仰向けになり、浮き身を始めた。
 長身の体を海面にじっと浮かべ、波がくるたびにユラユラと揺れている。いかにものどかで、明日香も真似してみたくなった。それでも水の深さと冷たさに躊躇していると、景一が何か言った。
「なあに?」と、明日香が声をかけると、景一は日差しが眩しいのか、目を細めて、
「いい気持ちだ、太陽がいっぱいだ」と、独り言のように言った。
 明日香は、聞きおぼえのあるセリフにうれしくなり、水飛沫を上げて飛び込んだ。
 景一のそばまで泳ぎ、わざと顔に水をかけた。景一はプッと噴き出し、明日香を捕まえようとした。明日香は、黄色い声を上げながらボートへ逃げた。景一もあとからたどり着き、
「へえー、けっこう泳げるんだな」と、感心したように言った。
「そんなことないわ。五十メートルくらいかしら」
「それだけ泳げれば、十分だ」

 ボートは波に乗り、少しずつ岸へと戻されていく。
 それと同時に、子どもたちの騒ぐ声や、人々の喧騒も近づいてくる。浅瀬は、泳ぐのもままならぬほどの混みようである。そこまで流されると、また沖へと漕いでいった。
 ボートの中は狭くて、二人でいると、伸ばした脚がピッタリとくっつく。景一は、明日香がほしくなった。人影のない所でボートを止め、唇を吸った。しょっぱくて、海の味がした。舌を絡め、胸を愛撫すると、明日香は口の中で苦しそうな声を出していた。

 強い日差しに、肌がジリジリと焼かれていくようだった。
 景一はひとりでボートの上にうつ伏せになり、日光浴をたのしみながらウトウトしていた。明日香は、泳ぎ疲れてはボートに戻り、少したつと泳いだり、を繰り返していた。
 ボートのそばを、十歳くらいのかわいい少年が、小さな体に不釣り合いな大きな浮袋に乗り、沖へ沖へと泳いでいた。波に逆らうせいもあるが、きわめてのろく、プカリ、プカリと、いかにものんびりしている。
 そのあたりは二、三のボートが浮かんでいる程度で、人影もまばらである。浅瀬からは五十メートルくらい離れている。
 明日香は平泳ぎで少年に近づき、
「キミ、こんな所までひとりで来て、怖くないの?」と、心配そうに話しかけると、
「平気だよ、浮袋があるもん」と少年は、あたりまえのようにこたえた。
「でも、危ないわよ」と言う明日香の手は、いつの間にか少年の浮袋に捕まっている。
 景一は二人の会話が耳に入ると顔を上げ、おもしろそうに眺めていた。少年は目敏く景一に気づき、
「あそこのひと、お姉ちゃんの恋人かい?」と、きいた。明日香は狼狽して景一の方を振り返ったりしていたが、
「大人をからかうんじゃないの」と怒ったふりをして、鋭い質問をかわした。
 少年は明日香の心を見透かすようにニヤニヤしていたが、
「じゃあね」と言って向きをかえ、浅瀬の方へ泳ぎだした。
 のろい速度とは対照的に、足をバタバタと動かす音と、上げる水飛沫の大きさが、やけに目立っておかしかった。

 岸へ上がり、磯を歩いた。
 岩の窪みの水溜まりでは、稚魚がせわしなく動いていた。両手ですくおうとすると、スルリと器用に身をかわした。はずみで、景一は転びそうになった。咄嗟に手をつくと、岩の先端で掌を薄く切った。ジワジワとにじむ血を、二人して珍しそうに見ていた。
 シャワーを浴びると、水がやけに冷たかった。服を着ると、ムッとする暑熱がおそってきた。そばの食堂で食事をすませ、散策に出かけた。
 近くに燈台が見えていた。そこまで歩くことにした。
 すぐそこに見えるのに、歩くと案外時間がかかった。
 そこは、N岬という国定公園である。房総半島の最南端に位置し、その果てまで歩くことにした。
 道が途切れ、足元の危うい岩場を越えて行くと、すばらしい眺望が、パッと大きく開けた。瞬間、どちらともなく「ウワーッ!」と、歓声を上げた。三百六十度、ぐるりと海に囲まれているようだった。雄大な自然そのものを見るようで、じつに壮観だった。
 二人がたどりついた場所は、海面から三メートル以上ある大きな岩の上である。周囲は岩だらけで、目の前の海面のそこここにも、岩が背中や頭だけをのぞかせている。
 海水は清く澄んでいて、あくまでも青い。波は白い泡を吹きながら迫り、足元で砕けていた。青い海と白い波――その色彩の織りなす景観は、見事に美しかった。
 二人はその場に腰を降ろし、眺望に見入っていた。言葉はいらなかった。泳いだあとの疲労が、むしろ心地よかった。
 太陽は右前方の、かなり西に傾いた空に位置しているものの、まだまだ強烈な光を放ちつづけている。
 明日香は、頭を景一の肩にもたれたまま、視界の端に浮かぶ漁船を指差した。そのしぐさが幼女のようである。
 それは、キラキラ光る海の、遙か彼方の水平線に近い所を、微かに東へ、進むともなく進んでいた。
 景一は空気のように自然と融合していた。すべてのものがすっぽりと自然に包まれていた。水平線上の漁船でさえ、自然そのもののようだった。
 静寂の中で、波の音だけが動いていた。忍ぶように弱く、そして強く。
 景一は時を越え、永遠の宇宙を漂っているような気分だった。時はピッタリと止まっていた。いや、駆け足で過ぎていくようでもあった。
 どのくらいそうしていたのだろう。おそらく三十分程度だったにちがいない。数人の男女が談笑しながら近づいて来る声で、急に現実に引き戻された。立ち去り難い未練を残して、バス停へと歩きだした。
 帰りの電車の窓から、きれいな夕焼けを見ることができた。
 太陽は、薄紅の翼を、水平線上に果てしなく広げて海を赤く染めながら、今まさに落ちていこうとしていた。
 景一はその美しさに感動して、窓際の明日香に声をかけた。返事がない。明日香はいつの間にか眠っていたようである。座席に深く身を沈め、頭をややこちらの方に傾けて、気持ちよさそうな顔を見せている。夕映えに染まったあどけない寝顔を見ていると、揺り起こしたい衝動にかられた。

 アパートに戻り、駅前で買った花火を燃やしていると、近所の子どもたちが数人集まってきた。
 明日香は、彼らにも花火を持たせていた。赤や青の火花がきれいだった。
 ねずみ花火がなかなかつかない。ひとりの元気のいい子が、こわごわマッチを近づけると、突然、シュシュシュッとみんなの足元を駆け回り、けたたましく炸裂した。
 賑やかなひとときのあと、最後に残った線香花火を、明日香は大事そうに持っていたが、火玉は大きなままで、散り急ぐようにあっけなく落ちていった。

 裸になると、水着の跡が鮮やかだった。小高い胸に触れると、景一の手の中で、乳首がだんだん小さく固まってゆく。日焼けした肌は、からみ合うとヒリヒリと痛んだ。明日香の長い髪に顔をうずめると、洗ったばかりのシャンプーの香りのむこうに、磯の匂いがまだうっすらと残っているようだった。

 六日目の朝が来た。
 明日香は、当初の予定では、今日帰るはずだった。
 明日香は、両親には、大阪のクラスメイトの所へ一週間の予定で遊びに行く、と言って家を出てきた。事実大阪には二日間滞在し、上京したのである。もし両親から大阪へ電話があったばあいは、京都見物に出ていると、友人に言ってもらうように頼んだらしい。
 そんな事情から、早めに帰郷する必要があった。
 ところが明日香は、朝食を終えても帰り仕度をするようすがない。
 景一は心配して、
「帰らないのか?」ときくと、明日香は、
「もう少しいたいの」と、甘えるように言った。一瞬景一は困ったようだったが、
「好きにしろ」と、投げやりに言った。しかし、見つめ合う目が、うれしそうに笑っている。
「どうせなら、海で一泊するんだった」
「ごめんなさい」

 次の日の朝。
 二人は目覚めたばかりである。
 昼ちかくなっていたが、二人は床を離れるようすがない。
「わたしたち、これからどうなるの?」
「……」
「このまま、ずうっといようかしら」
「……」
 景一は黙ったままである。
 開け放たれた窓から、遠く蝉の声が聞こえる。
「ねえ、このままいっしょに暮らしましょうよ。わたし、一生懸命働くわ」
 明日香は、素肌にタオルケットまきつけた体を、景一に寄せながら言った。
 景一は、思わず目をそらしてしまった。
「わかっているわ、あなたが困っていることくらい。……迷惑なんでしょう?」
「そんなことはない」
 やっと景一は口を開いた。涙が出そうだった。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「……」
「ごめんなさい。もう二度としないわ、こんな話」
 明日香はプイと背中を向けた。二人はしばらく口をきかなかった。

 とうとう八日目の朝が来た。
 今日は八月七日である。十日ころに明日香を訪ねて、長崎から従姉妹が出てくることになっている。両親はさぞハラハラしながら、明日香の帰宅を待っていることだろう。
 景一は、朝食の買い物に出かけようとした明日香の手を取って、
「もう、帰るべきだ」と、決めつけるように言った。
 しかし明日香は平気な顔で、
「いやよ」
「わからないことを言わないでくれ」
「だって、帰りたくないんだもん」
 明日香は、上目づかいで景一を見ながら言った。その仕種が、かわいい。
 景一は苦笑して、
「わかった。そのかわり、明日は必ず帰るんだよ」
 明日香はちょっと考えていたが、さすがに観念したのだろう、
「うん」と、深く頷いた。

 約束の朝――
 景一は、朝食を終えても帰り仕度を始めようとしない明日香にイライラしながら、
「早く用意しろよ」
「帰るの、あしたでだいじょうぶだから……」
「だめだ。今日帰るって、約束したじゃないか」
「あした帰るの!」
「頭にきたなあ、約束をやぶる女なんて、最低だよ。ひとりで、いつまでもそうしていろ!」
 景一は乱暴にドアを開けて出ていった。夜になるまで帰ってこなかった。景一が部屋に戻ったのは八時過ぎだった。
 中のようすを窺いながらそっとドアを開けると、明日香は部屋の片隅で静かに座っていた。そばに旅行カバンが置いてある。
 近づいた景一を見上げ、
「わたし、帰ります」と言って、カバンを手にして立ち上がった。
 そのひとことを景一に告げるために、ずっと待ち続けていたようだった。疲れきった表情である。
“悪いことをした”と景一は思い、
「帰るって、これから?」と、やさしくきいた。
「ええ」
「今日はもう遅いから……」
「約束だから、帰るわ」
 景一は明日香の前に立ち、両手を肩にのせて、
「ごめん、おれが悪かった。あしたまで、いっしょにいてくれないか」
 景一の目には涙がにじんでいた。明日香は一瞬ボンヤリした顔つきで景一を見ていたが、すぐに俯き、しくしくと泣き出した。
 景一は明日香を抱きしめた。そして、惜しみなく抱き合い、短い眠りに就くのだった。

 景一が目を覚ますと、朝食の用意がすっかり整っていた。
 明日香は、九時の新幹線で帰るそうである。
 食事を終えてくつろいでいると、またどちらからともなく抱き合っていた。
 早めに部屋を出て東京駅に着くと、帰省客が予想以上多くいた。
 列車を待つ間に、明日香は、
「正月、帰ってくるんでしょう?」と景一に、来春の帰省を促した。
「わからない」と、景一の返事は頼りない。
 明日香は、つないでいでいる手を強く振りながら、
「必ず帰ってきてね」と、迫るように言った。景一は断れなくなり、
「わかった」と、頷いていた。
 明日香の乗る列車がホームに入り乗客が降りると、景一は勇敢に乗り込み、窓際の座席をなんとか確保した。
 景一はすぐホームに降り、タバコを吸ったり、あらぬ方を見たりしていた。
 明日香は窓から景一を眼で追っていた。眼と眼が合うと、景一は照れくさそうに視線をそらした。しかし、発車のベルが鳴り始めると、さすがに明日香を凝視していた。
 間もなく列車は動き出した。
 明日香は景一を見つめたまま、手を小刻みに振っていた。だがすぐに窓は白く光り、明日香の姿をかき消してしまった。
 列車の後姿が遠ざかって行くのを眺めていると、心の中でドラマの終曲を聴いているような気分になった。
 胸いっぱいにドラムが鳴り響き、サックスが叫ぶ。
 ――とうとう、明日香は去って行った! と。
 そのままどこかへ力まかせに走り、死ぬまで走り続けたいような、めちゃくちゃな衝動を抑えながら、景一は静かにその場をあとにした。
 その日を境に、夏は終わった。
 実際は、残暑の酷しい日がなおながながと続いたが、明日香の帰郷とともに、景一の熱い夏は終わった。
 その後も二人の関係は、一年以上つづいた。だがそれは、夏の日の残照にすぎなかった。二十歳の夏、二人にとってあの日々がすべてだった。


第三章

 数日後、仕事を終えた景一は、ひと眠りしてから、さっそく次の部屋を探し始めた。
 高田馬場の不動産屋を軒並み回ったが、いい部屋はなかった。翌日もだめだった。どこもいま住んでいる部屋と大差はないようだった。
 景一は落ち着ける環境がほしいだけだった。
 景一は週に三、四日しか働いていない。そして、仕事以外の時間は、ほとんど部屋にいる。したがって、アパートの環境の良し悪しが、生活全体を大きく左右する要因となるのだった。
 景一のような細い神経には、人里離れた一軒家がふさわしいのかもしれないが、そうもできない。しかも住み慣れた高田馬場で探すとなると、高級マンションにでも入るしか方法はないようだ。
 景一は上京して以来新宿を離れたことがなく、その便利さに毒されていた。せめて私鉄沿線の住宅街にでも引っ込んでみようかと考えたが、躊躇された。通勤の不便は我慢できるにしても、食事が問題だった。
 景一の生活は不規則をきわめているため、二十四時間いつでも営業している食堂が部屋の近くに必要だった。高田馬場にはそれがあった。
 いろいろ迷ったが、いちおう私鉄沿線で探してみることにした。
 景一の所属する警備会社は、池袋に事務所がある。週に一度、給料を受け取るために立ち寄るので、西武池袋線沿線で探すことにした。
 不動産屋を数軒あたるうちに、桜台でいい部屋を見つけた。
 桜台は、池袋から四つ目の駅である。北口を降り、駅前の商店街をぬけると、閑静な家並が続く。都会の喧騒はここにはなかった。道で行き交う人たちもどこかのんびりしていて、人間らしい生活の場を感じさせるものがあった。
 景一の選んだアパートは、駅から歩いて五、六分の、静かな住宅街のなかにあった。そこは二階建てで、各階三世帯しかない、小ぢんまりしたアパートだった。二階の二部屋が空き部屋になっていて、手前の、階段を上がってすぐの方を選んだ。
 ドアを開けると四畳くらいの台所があり、左手にトイレもある。台所の奥は六畳間で、南隣との壁に一軒の押入れが付いている。東側と北側に広い窓があるため、たいそう明るかった。窓はアルミサッシでできているので、防音効果も期待できそうだった。
 東向きの窓を開けると、このアパートの大家の、平屋建ての瓦屋根がすぐ下に見える。北向きの窓を開けると、私道を隔てて、向かいの家の庭木が目に入った。
 部屋を紹介してくれた不動産屋に食堂のことをきくと、駅前に何軒もあるが、懸念したとおり、どの店も夜十時ころには閉店してしまうそうである。居酒屋なら午前二時ころまで営業しているらしいが、そんな所で食事するのはいやなので、やはり観念して、自炊することに決めた。無精な景一にそうさせるほど、その部屋が気に入ったのである。
 一月の終わりに、桜台へ引っ越しした。
 景一は数日、荷物の整理や、部屋のかたづけで忙しかった。
 六畳間を広くするため、冷蔵庫だけでなく、本箱やファンシーケースまで、台所に置いた。机を東側の窓際に据え、スピーカーと、ステレオを収めたラックを台所との境の両端に置いたので、六畳の空間が、あまり損なうことなく手に入った。

 夜勤明けの帰り道、駅前の電気屋でガスストーブを買った。
 部屋に戻ると、箱から取り出し、長いホースで六畳間まで伸ばした。火を点けると、すぐ暖まってきた。昨日まで電気ストーブだけで、よく辛抱できたものだと感心した。
 ゴロリと横になり、手足を伸ばして大の字になった。久しぶりに、落ち着いた気分を味わうことができた。睡眠不足の体は、すぐにトロトロと眠りに落ちていった。
 二十分くらい経ったころ、ドアをノックする音で目を覚ました。
 景一はガラス戸を開け、眠そうな声で、
「どなたですか」と、横になったまま言った。応答がない。
 またしばらくして、ノックする音が聞こえてきた。きっと新聞屋か何かの勧誘だろうと思い、無視することにした。
 ところが相手は、しつこくノックし続けるのだ。景一は根負けしてドアを開けた。
 やはり、新聞の拡張員だった。景一の顔を見るなり男は、
「あっ、すいません。おやすみだったんですか」と、取ってつけたように詫び、
「じつはX新聞の者ですが、いまどちらの新聞お読みですか」と、早口に言った。
「まだどこも取ってない」と、景一が無愛想に言うと、男はパッとうれしそうな顔をして、
「それはちょうどよかった。さっそく今日の夕刊から入れますよ」
「だめだ、おれX新聞きらいなんだ」
 景一がさらに無愛想な応対をすると、男は泣き落としにかかってきた。
 男は苦学生で、一日に十軒の契約を取らないと奨学金がもらえない。今日はまだ一軒も取れていない(男はしゃべりながら白紙の契約書を見せた)。精いっぱいサービスするから、なんとかお願いします、などと言いながら、何度も頭を下げた。
 景一は話を聞きながしながら、男の風体を上から下までジロジロと見ていた。
 乱れた長い髪、薄い眉、ギョロリと大きな目、上を向いた鼻、こけた頬、みそっ歯の口許にだらしなく伸びた無精髭。着ているものは、グレイのトックリに紺のジャンパー、くたくたになったジーンズに薄汚れた白いスニーカー。年齢は二十代の後半だろう。苦学生というよりは、駅の通路などでゴロゴロしている浮浪者を連想させる。
 景一は男の話は嘘だと思ったが、彼が手にかかえている箱が気になった。ポットのようである。
「わかった。それで、そのポットをくれるのかな」
「ええ、どうぞどうぞ」と、男は思い出したようにそれを手渡そうとしたが、景一は受け取らず、
「それだけなの?」と、突き放すように言った。
「ほかに、鍋とやかんのギフトセットがあります」
「両方くれるのなら、契約してもいい」
「ありがとうございます。では半年契約でお願いします」
「半年は長いな、おれX新聞きらいなんだよ」
「そうですか……わかりました。三ヵ月でいいです」
 契約は成立した。四月から入れてもらうことにした。
 男はポットとギフトセットと、おまけだと言って、X新聞社から発行されている週刊誌を置いていった。
 景一は男が立ち去ると、戦利品を点検するように二つの箱を開いた。
 ポットはZ社の最新式のものである。定価五、六千円はするだろう。
 もうひとつの箱には、中くらいの大きさの鍋とやかんが入っていた。クリーム色の地にピンクの花柄を散りばめた、なかなかファッショナブルな物だった。景一には、それがどのくらいするのかわからなかったが、二、三千円はするように見える。
 いまさらながら、サービスの良さに驚いた。三ヵ月の新聞代は五千四百円である。もらった品物は、安く見積もっても七、八千円はするだろう。これで採算が取れるのかな、と心配したりした。
 景一は男が置いていった週刊誌を取り、また横になった。表紙には、男好きのする顔をした女が誘うような笑をうかべていて、その右脇には、赤地の白ヌキで『ロッキード事件初公判特集』とあった。
 そういえば、数日前そのことをラジオのニュースで耳にしたおぼえがあった。
 最初のページのグラビアは、東京地裁に出頭する田中角栄のようすをとらえていた。田中は、堂々と、大手を振って歩いている。不遜とも、また無実を確信している姿とも、どちらにも見える。やや後方を歩く、弁護士とおぼしい男の、きまじめな表情とは好対照である。
 景一は、ここ一週間ちかく部屋の整理などにおわれ、ろくに新聞も読んでいなかったので、興味深くページをめくっていった。
 じきに腕が疲れてきて週刊誌を横にやり、目を閉じた。さきほど少し眠ったせいか、体にはまだ疲労は残っていたが、頭はスッキリしていた。
 景一はそのまま、何やら考え込むようだった。

 ロッキード事件が発覚したのは、昨年(昭和五十一年)の二月六日のことだった。
 アメリカ上院の公聴会で、ロッキード社副会長・コーチャン氏が、日本への航空機売り込み工作に触れ、
「金を政府高官に支払うため、丸紅の伊藤にわたした」と、証言したことが発端となった。政府高官の容疑者として、時の総理・田中角栄、幹事長・橋本登美三郎、運輸政務次官・佐藤孝行の名が浮かび上がった。
 あらゆるマスコミは、未曾有の贈収賄事件として連日報道を続けた。国会で証人喚問を受けた関係者の一人が、
「記憶にございません」と答弁したのが、こののち長く流行語となった。
 景一にはこの事件が、世間が騒ぐほど驚くべきものとも思えなかった。
 国際的な事件であること、また容疑者が総理大臣という最高権力者にまで及んだという特殊性と、なぜコーチャン氏があえて証言したかなどの疑問は残るものの、相も変わらぬ政界と財界の癒着した実体である。どうせ氷山の一角にすぎないと思える。
 景一には、今の政界の現状は、憂うべき病んだ姿と映っていた。
 ――日本の政治には容易に救い難いものがある。政治家の質、国民の意識、ともにきわめて劣悪だ。
 政治家は莫大な資金を投下して選挙に臨み、当選すると資金を回収するため利権あさりに狂奔する。奴らの能力とは、政治資金の調達能力であり、唯一ある政治力とは、対立意見を足して二で割ることくらいだ。奴らの政治には、理念も哲学もない。その場しのぎの、無定見で無節操な政治にすぎない。
 権力欲にとりつかれた彼らは、国民不在の、政権争奪にともなう派閥抗争を、飽きもせず繰り返していくことだろう。
 貪欲で浅ましい政治家、彼らを利害と知名度で選出する無知な国民。日本の政治を良くするには国民の意識を向上させるしかないのだが、それは百年河清を待つ感を懐く。日本の政治に黎明はない。百年待とうと、二百年待とうとも、決して夜明けが巡り来ることはないのだ!

 ひと眠りしてから、自炊用具を買いに出かけた。
 フライパンや食器類など、思いつくままに買った。
 さっそく何か作ってみようと思い、手始めにインスタントラーメンを作ってみることにした。驚いたことに、料理といえるものを、これまで一度も作ったことがないことに初めて気づいた。実家にいるころは、どんな些細なことでも、母か妹にしてもらっていた。上京してからは、すべて外食である。
 もっとも一時期、出まわり始めたばかりでめずらしさもあって、毎日のようにカップラーメンを食べていた。今では飽き飽きして、その臭いを嗅いだだけで気分が悪くなる。
 説明書をよく読んで、鍋を火にかけた。カップ三杯の水を入れ、沸騰してから麺を入れた。ときどき麺をほぐしながら、きっちり三分間待った。火を消してスープを入れた。スープが飛び散らないように、ていねいにどんぶりへ移した。
 生まれて初めて、自分で作った料理である。妙に感慨深く、いわばおいしかった。
 たかがインスタントラーメンとはいえ、きちんと作れたことで自信がわいた。それからは食堂へ行くたびに注文したものの調理方法をたんねんに見て、その日のうちに同じものを作った。
 何度か繰り返すうちに、得意なものがいくつかできてきた。日を追って、自炊するのがたのしくなった。
 好きな音楽を聴きながら、食事できるのが良かった。あとかたづけも、そんなに苦にならなかった。
 景一の生活は一変していた。
 新しいアパートでの生活は快適だった。
 静かで穏やかな日々が続いた。
 読書し、思索し、そして音楽を聴く――それが景一の生活のすべてだった。
 このごろは、よくレコードを聴いた。環境が変わると、同じ音楽でも新鮮な感覚で聴くことができる。
 キング・クリムゾンが刺激的だった。ピンクフロイドに、孤独の哀愁をおぼえた。バロックの繊細な旋律が、生活に爽やかな香りを添えてくれた。
 満ち足りた日々だった。上京して以来、いちばんいまが幸せであると感じていた。
 しかし、そんなささやかな景一の幸福も、長くは続かない運命にあった。

 南の国から桜の便りが届くようになった、二月下旬の、日差しの暖かい、うららかな日のことだった。
 景一は仕事を終えて部屋に戻り、軽い食事をとって横になっていた。
 午後二時ころ、一台の車がアパートのすぐそばで停車し、数人の男たちが、階段をドカドカと鳴らして上がってきた。彼らは大声でしゃべりながら廊下を通り、隣の部屋に入った。何がおかしいのか、大声で笑ったり、わめいたりしていたが、突然ドスン、ドスンと、すさまじい音をたて始めた。
 景一は度胆を抜かれた。部屋じゅうが揺れ、ガラス戸や台所のものがガタガタと音をたてている。床を強く踏みつけているのだ。何を考えているのか知るよしもないが、床が抜けるのではないかと心配されるほどのものだった。
 景一はたまりかねて、パジャマのまま部屋を飛び出した。
 隣の部屋のドアは大きく開け放たれていて、中のようすがすぐ目に入った。
 台所の奥の畳の部屋で、三人の男が力を込めて地団太を踏んでいる。へたなモンキーダンスみたいで滑稽だった。
 彼らの狂態に怒りを忘れ、笑いながら気やすく声をかけた。
「何をしているんだ?」
 聞こえなかったのだろう、まったく反応がない。景一は無視されたようでカッとなり、今度は大声でがなりたてた。
「コラッ! 何をやっているんだ!」
 男たちはいっせいに振り向いた。景一は、男たちを睨めつけていた。ドアの近くにいた男が怪訝な顔つきで、
「なんですか?」と、間の抜けた声を出した。
 景一はあきれて、
「なんですか、とは何だ。おれをなめてるんじゃないのか? おまえら、自分のしていることがわかっていないようだな。……うるさいんだよ、もっと静かにできないのか」
 男たちは互いの顔を見たりしていたが、さっきの男が、
「すいません。ちょっと畳の埃を出していたもんで……」
「チッ! ちょっと埃を出していただと? おれは隣の部屋の者だが、大地震でも起こったようなありさまだ。少しはハタの迷惑も考えてもらいたい」
「すいませんでした」
 男は素直に詫び、小さくなっている。ほかの二人の男たちも神妙にしている。
 景一は男たちがかわいそうになり、
「引っ越ししてきたんだ?」と、声をやわらげてきいた。
「ええ」
「そうか。多少の物音はやむをえないけど、気をつかってやってもらいたい」
「わかりました」
 景一は言ってしまえばスッキリして、
「じゃあ」と笑顔で声をかけ、部屋に戻った。
 男たちはボソボソと何か話し合っていたが、やがて下へ降りて行き、荷物を運び入れ始めた。彼らが気をつかって、できるだけ静かにしようとしているのはわかったが、音はするものである。重い物を運ぶときなど、交わす声もつい大きくなる。
 景一はしばらく部屋を空けることにした。
 出かけようとしてドアを開けると、二人の男が必死の形相で冷蔵庫を運び込むところだった。景一がドアをすぼめて通りやすくしてやると、
「どうも、すいません」と、一人が声をかけた。
 景一は彼らの行き過ぎるのを待って、外に出た。
 階段を降りたすぐの所に、二トントラックが横づけされていた。
 景一は荷台にある大きな鏡台が目に入り、足を止めた。怪訝に思って佇んでいると、男たちが降りてきて、それを運ぼうとしていた。
 ちょうどそのとき向こうから若い女が、
「ごめん、ごめん、遅くなっちゃった」と、かん高い声で言いながら、足早に近づいて来た。男たちは急に元気になって、なんやかやと女をなじっていた。彼女はかかえてきたビニール袋から缶コーヒーを取り出し、男たちに手渡しながらなだめている。
 景一は彼らの会話を背中で聞きながら、歩き出した。隣に住むのは彼女だろう、と思った。いやな予感がした。
 今日まで静かな生活を送ることができたのは、隣が空き部屋だったのが大きな要因だった。ところが、さきほどのばか騒ぎである。平穏な生活が崩れていくような不安な気持ちを、拭い去ることができなかった。

 駅前にある喫茶店に入った。客はまばらだった。
 景一は新聞を取り、窓際の明るいボックスに座った。
 ユーライアヒープの『七月の朝』がかかっていた。懐かしかった。コーヒーを飲みながら、最後まで感慨深く聴いていた。
 四年前の七月、明日香のことを考えながら、よくこの曲を聴いた。彼女の誕生日が七月なので、よけいこの曲が彼女を連想させたのだろう。
 最後のところだけでも、もう一度聴きたいと思った。FM放送だったらしく、曲が終わると、アナウンサーが何かしゃべり始めた。景一はタバコを吸って、新聞を広げた。
 一面トップは「青酸チョコ事件」の記事だった。何事だろうと活字を追ってみた。
 『八重洲地下街に青酸チョコ』と、横書きで白ヌキの大見出しである。
 『落とし物装い四十箱』『通行人届け被害はなし』『致死量超す反応』という見出しのあと、次のような記事が続いた。

 「バレンタインデーの今月(二月)十四日、東京都中央区八重洲の、東京駅八重洲地下街で、通行人に拾われたチョコレート四十箱の中に、致死量を上回る青酸ナトリウムが混入されていたことが二十六日明らかになった。このチョコレートは、拾得物として交番に届けられたため、被害者は出ていない。警視庁捜査一課は、今年一月、二人の犠牲者を出した青酸コーラ事件と同じく無差別殺人をねらった殺人未遂事件と断定し、中央署と協力して捜査を始めた。チョコレートの箱には、『オコレルミニクイニホンシンニテンチュウヲクタス』(おごれるみにくい日本人に天誅を下す)と、片仮名で書かれており、バレンタインデーにあわせて殺人をねらったきわめて悪質な計画的犯行とみている」

 社会面にも関連記事があり、ざっと目をとおした。
 スポーツ欄には、巨人軍の王選手が、オープン戦でホームランを打った記事が載っていた。この調子なら、アーロンのもつ世界記録を、今年中に破るにちがいない、と思ったりした。
 ほかにたいした記事はなかったので、新聞を脇にやり、タバコに火をつけた。
「青酸チョコ事件」のことを、考えるともなく考えていた。
 景一には犯人の心理がわかるような気がした。『オコレルミニクイニホンシンニテンチュウヲクタス』と書かれた文字に、多少の共感をおぼえた。
 ――でもおれだったら「愚かで醜い日本人に天誅を下す」と書くだろう。彼らは容易に救い難いほど愚かだ。そんな彼らを十人や二十人殺したって、どうってことはない。むしろそれによって、己の醜さに気づくのであれば、無差別殺人もやってみる価値はあるのかもしれない。
 ――日々の瑣事におわれ、人々は哲学を忘れ去ってしまった。ロマンも信念もなく、打算的で、権威と権力にすぐに盲従してしまう。創造力を失くして受動化し、刺激にのみ敏感な反応を示し、刹那の快楽に溺れていく。
 マスメディアから流される情報を鵜呑みにして、口先だけは、ちょっとした評論家をきどってはいるが、実は物事の本質や真実をつかめず、洪水のように流される情報に踊らされているにすぎない。
 景一はスーパーで買い物をするため、喫茶店を出た。
 遮断機の警報機がカンカンカンカンと、うるさく鳴っていた。
 中年の女が四、五歳の男の子を引きずりながら、せかせかと歩いてくる。八百屋のおやじが客に「らっしゃい」と、景気よく声をかけている。軍艦マーチとともにパチンコ屋の喧騒が耳を逆撫でする。小型バイクが人並みをぬって近づき、けたたましい爆音とともに景一をかすめて走り去って行った。
 ――一歩外に出れば、車は当然のことのように、轟音を撒き散らして走り過ぎて行く。道を行く人々は、皆同じ顔をして足早に通り過ぎる。彼らは一様に個性がなく、同じような服装をし、同じ流行語を駆使して、既製品のように画一化している。
 どうやら現代の物質文明は、人間をモノと化し、機械の一部としてしまったようだ。
 ――また科学文明は、人類により快適な生活をもたらすという正当化のもとに、あらゆる欲望の充足を善とし、果ては性欲や支配欲などの全的肯定をも許す土壌を用意してしまった。
 物質的な豊かさへの欲求や、肉体的な快楽への隷属は、彼らをガリガリのエゴイストと変えていき、そしてエゴイズムの飽くなき追求は、必ずや人類を悲劇的結末へ導くにちがいない。
 ――にもかかわらず、彼らはその状況を認識できずにいる。みずからの状況を把握する能力すらない彼らを、人間とは認め難い。むしろ家畜に等しい存在といってよい。本能に衝き動かされて右往左往する獣と、大差はないか、あるいはそれ以下の存在かもしれない。そんな彼らの十人や二十人を、無差別に殺したところで、微塵も大勢に影響はないのだ!

 隣に住むのは、やはりあのとき見かけた女だった。
 翌日、景一の部屋をノックする者があり、ドアを開けると、彼女だった。
 彼女は、男たちが騒いだことを詫びたあと、池袋にある大学の四年生であること、夜は桜台駅前のパブでアルバイトをしている、などと簡単に自己紹介して、
「暇なときにでも店に来てくれれば、サービスしますよ」などと言って、一人で笑っていた。
「そうだな」と景一は、曖昧な返事をしただけだった。
 近くで見ると、彼女はなかなかチャーミングだった。パッチリと大きな目が印象的である。背は少し低いが、肉づきがよく、裸にしたらきっといい体をしているだろう、と思いながら見ていた。
 挨拶がわりにと言って、彼女はきれいな包装紙に包んだ箱を置いていった。開けてみると、中身はバスタオルだった。いま使っているのは、そんなに汚れていなかったが、せっかくだから、取り替えて使わせてもらうことにした。
 彼女はいまは春休みなのだろう、昼間はだいたい部屋にいるようだ。そして夕方六時前に仕事に出かける。
 景一の生活は以前と変わらなかった。先日懐いた不安は杞憂であったかと、いったんは安心していた。ところが、それは長続きしなかった。
 彼女が引っ越ししてきて、十日くらい経った日のことだった。
 彼女は夜の十一時過ぎに数人の男女を部屋に連れてきて、ドンチャン騒ぎを始めた。それが深夜の二時ころまで延々と続くのだ。
 それからはそんなことが週に二、三度あるようになった。景一の神経は限りなく乱されていった。だが、注意する勇気が出てこない。それは彼女が、チャーミングな女性だからだった。
 しかし、三月の下旬のある日、またしても酒宴をながながと続けるようすにたまりかねて、景一は女の部屋を乱暴にノックした。深夜の一時を回っていた。瞬間騒ぎはおさまり、シーンと静まりかえった。
 ややあって、
「どなたですか?」と、ためらいがちな声がした。彼女のようである。
「隣の者だけど」
 景一はブスリと言った。彼女はドアを開け、間髪を入れず、
「すいません、うるさいですか?」と、アルコールに赤く染まった頬に手をあて、媚びるような仕種をして言った。
「あたりまえだ、何時だと思っているんだ」
 景一の態度には取りつく島もない。彼女は急に顔をこわばらせ、
「すいません。すぐに終わらせますから」と、詫びた。景一は彼女を見下ろすようにじっと見つめていたが、無言のまま、プイと部屋に戻った。
 それからしばらくボソボソ話声がしていたが、十五分くらいで解散してしまい、すぐに静かになった。
 その日以来、彼女はめったに人を連れてこなくなった。
 数日、穏やかな日が続いた。
 彼女は相変わらず昼間は部屋にいた。音楽を聴きながら雑誌でも読むのだろうか、いつもFM放送が彼女の部屋から洩れてくる。
 こんどはその音が景一の新たな悩みとなった。さほど大きな音量ではないが、景一の耳にはクッキリと聞こえる。つけっ放しにしているから、それが長時間に及ぶ。
 そんな日が幾日も続いたが、景一にはどうすることもできなかった。耳ざわりな音ではあるが、客観的にみて、注意するほどの音量ではないからだ。ただ景一の神経が異常に敏感なだけである。
 彼女の部屋とは、壁だけでなく、押入れをも隔てている。それでもだめなのだ。
 耳栓をしてみたが、うまくいかなかった。耳が痛くなるだけだった。
 見たくなければ目をつぶればすむ。しかし、音はどうしようもない。死ぬまで音はつきまとうのだ。
 ともあれ慣れるしかない、と思った。しかし、それは容易にできそうもなかった。ゆるい坂を転びながら落ちていくように、景一の生活は徐々に乱されていき、やがて大きく揺れ動く日が、すぐ近くまで来ているようであった。


第四章

 十一時の巡回を終えた景一は、警備室に戻ると、上着を脱ぎすて、ネクタイもはずした。ここ数日急に暖かくなり、ビルの内部は、夜になってもあまり気温が下がらない。ワイシャツの腕まくりをして、ちょうどいいくらいだ。
 四月に入って桜の蕾もようやくほころび、今夜あたりは桜の名所へ、花見客がドッとくり出していることだろう。このビルの社員たちも仕事を早々に切上げ、新宿御苑や上野公園へと、出かけて行った。いまごろは、ばか騒ぎにも飽きて、家路を急いでいるころなのかもしれない。
 ビル内にはまだ五、六社、残業中だったが、警備室のある地下三階は、回りがすべて倉庫なので、外の喧騒もとどくことなく静かだった。
 ここのところアパートにいても、隣の部屋から聞こえるラジオの音に絶えずイライラさせられているため、この警備室で過ごす時間が、景一にとって唯一落ち着ける時間となってしまっていた。
 読みかけの単行本に目を落としていた。読書に身が入りかけたとき、外線用の電話が鳴った。外部から電話が入るのは、めったにないことだった。
 景一は受話器を取り、
「はい、Gビル警備室です」
「……」
 相手は無言である。景一はどうせいたずら電話だろうと思い、今度は少しぞんざいに、「もしもーし」
「……庄司さん?」
 景一は、アッと息を飲んだ。
 まぎれもなく、明日香の声だった。
 ややあって、
「どこからかけているんだ」と、景一はきいた。
「家から……お父さんたち、もう寝ちゃったみたい」
「うーん、驚いたなあ」
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
「お元気でした?」
「まあな」
「ひどいのね、電話くらいなら、そのうちかけてきてくれるものと思っていたわ」
 景一が一方的に連絡を断ってから、もう二年以上過ぎていた。
「わたしがどんな気持ちでいるかなんて、あなたは考えたこともないんでしょうね」
「そんなことを言うために、わざわざ電話してきたのか」
「そうじゃないけど……」
 沈黙がながれた。
 景一は、自分の態度が冷たすぎたかなと反省して、
「そういえば、やっぱり教師になったんだってな、藤田からきいたよ、おめでとう」と、やさしい口調でいった。
「ありがとう」と、明日香はうれしそうにこたえた。
 明日香は、以前から小学校の先生になるのが夢だった。昨年大学を卒業後、念願どおり、地元のH小学校の教師に採用されたのだった。
「わたしのクラスに、あなたみたいな子がいるのよ」と明日香は、担任のクラスの生徒の話をした。
「何だそれは」
「その子、人を笑わせてばかりいて人気者なの。その子を見ていると、あなたの小さいころもこんなんじゃなかったのかな、なんて思うことがある」
「そうか、でもそのころのおれは、けんかばかりしていて恐がられていたみたいだ」
「ああ、そういえばそんな話していたわね。でも、わたしの知っているあなたには、その子よく似ているのよ」
 明日香はそう言って、クスッと笑った。
「何だよ、その笑いは」
「だって、昔のこと思い出しちゃって……懐かしいわね」
「うん」
「初めて会ってから、もう六年になるのね」
「そうだな」
「わたしのことなんか、とっくに忘れていたんでしょう」
「そんなことはない」
「本当に?」
「あたりまえだ」
「以前と、ちっとも変わっていないみたい」
「そう簡単に変われるものでもない」
「変わるつもりがないんでしょう」
「まあな、……そう言う君だって、そうじゃないか」
「まあな」と明日香は、景一の口真似をして笑った。
 沈黙がながれた。
 ややあって、明日香は言いにくそうに、
「じつは……」
「何だよ」
「えーっと……」
「変なやつだな、はっきりしろよ」
「そうポンポン言わないでよ。わたしにだって、言いにくいことはあるのよ」
「ハハッ、そうか」
「……わたし、結婚するかもしれない」
「……」
「それで、あなたの声が聞きたくなって……」
 目の前がボーッと暗くなった。景一は心の動揺をなんとか抑えながら、
「そうか……じつは、それらしいことを先日藤田からきいていた。でも、やっぱりショックだな。……で、相手は誰なんだ?」
「大学の先輩なんだけど……」
「そいつにプロポーズされたわけだ」
「うん」
 景一は大きくため息をつき、沈黙した。
 明日香は間の悪さをまぎらすように、
「どうしようかなあ」と、独り言のように呟いた。
 景一は、なんとこたえていいのかわからず、黙ったままでいた。
「わたしのこと、気になる?」
「あたりまえなことを、きくなよ」
「なんだか怒っているみたい」
「……」
「でも、まだ決めたわけじゃないの。とにかく、あなたの声を聞いてみたくなって」
「そうだったのか」
 それから明日香は、プロポーズしてきた相手の男の話を、ぽつりぽつりと話しはじめた。それによると――
 その男は大学時代の先輩で、博多で中学校の教師をしている。好青年で、両親がずいぶん気に入っている。そのうえ、結婚後は明日香の実家で両親と同居してもいいと言っている。明日香は一人娘だから、両親は明日香が遠くへ嫁いでいくのがいちばん辛い。彼の配慮は、願ってもないことだった。彼の人柄、安定した職業、好条件等を考慮して、明日香さえよければ、ぜひまとめたいと両親は考えているようだ。
 明日香は、両親の期待と、自分の感情との板挟みのなかで悩んでいる。彼はいい人ではあるが、明日香は彼を愛してはいない。将来、彼に愛情を抱けるかどうかも、自信が持てない……。
 景一は明日香の話に「そうか」と、頷きながら聞いてはいたが、内心穏やかではなかった。明日香に縁談があることは了解ずみのつもりではいたが、いざ明日香本人から話をきかされると、なぜか心は乱れ、冷静ではいられないようだった。
 明日香は景一の心の動きにまったく気づかず、ながながとしゃべり続けていた。
 景一は、話が進むにつれて、だんだんこらえきれなくなってきて、
「もういい、話はわかった。それでおれに、どうしろというつもりなんだ」
 明日香は景一の態度が意外だったのか、なにもこたえられないようだった。
 しばらくして、
「わたしは、あのころと、ちっとも変わっていないわ。それを言いたかっただけなの。怒らせたみたいね……。ごめんなさい」
 といった明日香の声は、涙に潤んでいるようだった。
 明日香の敏感な反応にとまどうと同時に、明日香の涙で、景一の苛立ちも少しおさまったようだった。
 景一は明日香の心が静まるのを待って、
「おれが悪かった。つい感情にはしってしまった」
「ううん、いいのよ。わたしも、あなたの気持ちもわからないで、おしゃべりしてしまって、ごめんなさい」
 明日香の声はまだ少し潤んではいたが、スッキリした感じだった。
「おれは……」と、景一は何か言いかけたが、
「いや、もうやめよう。悪いけど、頭が混乱しちゃって、これ以上話せそうもない」
「……はい」
「後日、手紙でも書く」
「はい、……でも、必ず書いてね」
「わかった、約束する。……じゃあ、切るよ」
「待ってます」
「わかった」
「おやすみなさい」
 明日香はそう言ったあとも、受話器を置こうとはしなかった。景一は、そっと置くつもりが、ガチャンと無神経な音をたててしまった。
 ぐったりとした疲労を感じた。
 先程までと何ら変わらぬはずの室内が、なんだか薄暗くなったような気がした。
 そのままボンヤリしていると、
 ――明日香が結婚する。明日香が結婚する。ほんとうに明日香は、結婚するかもしれないのだ! と、胸の中で、こだまのように繰り返す声が聞こえた。
 景一は、明日香との恋は、四年前の夏、明日香が東京を去った時点で終わったと思っていた。実際はそれから一年以上つづいたのだが、それは夏の日の残照にすぎないと思いこもうとしていた。
 しかし、それはまちがっていた。明日香の電話でそれがわかった。
 明日香の声を聞いた時、瞬時に四年前の自分にもどっていることに気づき、今でも明日香を愛していることを認めざるをえないのだった。
 景一はそのまま、考え込むようにしていた。

 二十歳の夏、明日香が東京を去って間もないころの景一は、虚脱したように精気をなくしていた。何をしても、足が地についてないような虚しさが伴われる。
 二人でいたことがあまりに強烈だったので、明日香が来る前と、去ったあととの時間の間で、二人で過ごした日々がポッカリと宙に浮かんでいる。昨日まで同じこの部屋で、ただひたすらに抱き合っていたことが信じ難く、夢の中の出来事のように感じられるのだった。
 明日香が去ると同時に、景一は急に現実に引き戻された。竜宮城から、一瞬にして地上に帰されたようなものだった。地上では、相も変わらぬ醜態が演じられていた。
 都会の喧騒が狂気じみていて耐え難く、以前と同じ生活を、いっそう煩わしいものと感じた。
 明日香との日々を思い出とし、心にある空洞をうめつくすのに、なお数日を要した。
 二週間ほどして、明日香から便りが届いた。
 景一との日々を懐かしむ文章がつづいたあと、年末の再会を期待している、と結ばれてあった。景一はその中の数行に驚き、何度も読み返してみた。
 『……わたしは、あなたとこんなふうになったことを、決して後悔していません。上京するとき不安もあったけど、覚悟はできていました。だから、わたしのことは心配しないでください。……』
 景一は、二人がこんな関係にまでなってしまおうとは、まったく予期していなかった。偶然のなりゆきで、こうなってしまったと考えていた。早まったことをした、という後悔もあった。
 ところが明日香は、それを覚悟していたという。後悔もしていないと書いてある。景一は明日香の真意を推し量ってみた。そして、明日香は景一を気づかってそういったのであって、手紙に書かれていることは、きっと事実ではないだろう、と思うのだった。
 景一は悩みつづけていた。
 こうして離ればなれに暮らしていたのでは、二人の心はいつか遠ざかっていくにちがいない。それでもよいのだろうか――と。
 明日香もそれは感じていて、異常に帰郷を拒んでいたのも、そのためであったろう。そして――
 大学を卒業したら必ず東京で就職する。両親は反対するだろうけど、なんとか説得する。明日香は、大学を出れば、教師になる資格が取れるから、きっと就職口はなんとかなる……。などと言っていた。
 景一は、もしこのままの状態が続くのであれば、明日香のためを思えば、キッパリと別れるべきだろう、と考えていた。あの夏の日を、美しい思い出にするためにも……。
 手紙の返事を出そうとしたが、あれこれ迷っているうちに、何と書いてよいのかわからなくなり、そのまま月日だけが過ぎていった。
 二ヵ月ほどして、また明日香から便りが届いた。
 明日香の近況を縷々と綴り、結びに、
 『……あなたからの手紙を、なによりのたのしみに待っています。……故郷の空から、おやすみなさい』と、書かれてあった。
 景一は、再び返事を書かなかった。

 あの日、必ず帰ると約束した次の年の正月、景一は帰省しなかった。
 金がなかったせいと、明日香のことで悩んでいるうちに面倒くさくなり、帰るのが億劫になったからだった。
 明日香は、まるでこうなることを予測していたかのように、東京の景一のもとへ年賀状を送ってよこした。景一はそれを手にしたとき、さすがに“悪いことをした”と反省し、いたたまれない気持ちになって、明日香へ電話した。
「もしもし、水森です」
 明日香だった。
「えーっと、おれだけど」
「アッ、帰って来たのね!」
「いや、ちがうんだ」
「東京から?」
「うん」
「帰れなかったの?」
「むりをすれば、できたんだけど」
「そう……」
「年賀状ありがとう」
「ああ、そうだ。あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいいたします」と、明日香は思い出したように言って、クスッと笑った。景一もつられて笑い、
「こちらこそ、よろしく」と、こたえた。そのいい方が神妙だったので、明日香はまた笑った。
「これからでも帰ってくればいいのに、藤田さんたちも、たのしみに待っていたわよ」
 先月の初め、明日香は街で、藤田に会ったらしい。その時、景一は正月には必ず帰省する、と確約したそうである。
「そう言われると帰りたくなった」
「そうしなさい」
「そうだな……」
「お金がないの?」
「うん」
「わたしが、なんとかしてあげる」
「気持ちはありがたいけど、そういうわけにはいかない」
「わかっているわ、あなたが帰ってこないわけくらい。……わたしのことでしょう」
「……」
「もう、会いたくないんでしょう?」
「なんてことを言うんだ」
 景一は涙が出そうになった。
「だって、手紙もくれなかったじゃない」
「何て書いていいのか、わからなかったんだ」
「どうして?」
「……」
 景一は何もこたえられず、口をつぐんだ。
 気づまりな沈黙がつづいた。
 感じていることを、言葉にするのがこわかった。黙っていても、互いの心が理解できるからだった。
「今度はいつごろ帰って来るつもりなの?」
 かぼそい声で明日香が言った。
「わからない」
「たまには顔を見せないと、おばさんが心配するでしょう」
 明日香は、景一の母親のことを言った。
「そうだな」
「春にでも帰ってきなさい」
「そうだな」
 プツリと会話は途切れた。
 しばらくして景一は「じゃあ」と言った。明日香は「はい」とこたえた。なかなか電話を切れなかったが、しかたなく受話器を置いた。

 数日後、明日香から手紙が届いた。
「……わたしはあなたに、なにも求めたりはしないつもりです。わたしのことで悩んだりしないで……。あなたらしい生き方をしてほしいだけです」
 淡々とした文章の裏に、景一への思いやりが、痛いほど感じられた。
 景一は、春になったら必ず帰省しようと決心していた。

 その年の三月、景一は予定どおり福岡の土を踏んだ。
 そして、その日のうちに明日香へ連絡した。
 天神にあるなじみの喫茶店で待ち合わせた。
 明日香はすでに来ていて、入ってきた景一に、奥から手招きをして迎えた。
「お久しぶり」
 明日香は、景一がいすに落ち着く間も、もどかしいようだった。そして、
「お元気でした?」「あれからどうしていたの?」「まだウェイターを続けてるの?」と、矢継ぎ早に質問してきた。
 景一は、明日香の物腰や、ちょっとした仕種を見ていて、ずいぶん女っぽくなったな、と感じていた。
「今日は、おおいに遊びましょう。わたし、たくさんお金持ってきたから」
「どうせ親にせびったんだろ」
「失礼ね、アルバイトしたお金よ」
「ふうん」
 その店を出て、スケート場へ行った。
 手をつないで滑っていると、なんだか高校生のころに戻ったようなときめきをおぼえた。明日香は時折りバランスを崩し、黄色い声を上げて景一にしがみついてきたりした。
 レストランで軽い食事をした。クラブで飲み、踊った。寄り添ってホテルに入った。夏の日のように、熱く燃え上がっていった。
 景一は二十日ちかく実家で過ごした。その間、明日香は毎日のように電話してきた。景一は一年ぶりの帰省だったので、何かと用があった。明日香は、会えない日が三日もつづくと、きげんが悪かった。
 矢のように時は過ぎ、帰京する日がきた。
 明日香は、景一を駅まで見送ってくれた。
 できれば夏、それがだめだったら来年の正月には必ず帰省する、と約束して、景一は列車に乗り込んだ。
 列車が動き出すと明日香は、ゆっくりと大きく手を振りつづけていた。その姿が可憐で、景一の網膜に強烈に焼きついた。長い間忘れられず、その時の明日香の姿が、幾度となく眼前に蘇ったりした。

 結局夏には帰れなかったが、その年の暮れ、景一は帰省した。
 景一がわが家に落ち着いたその日、藤田が遊びにきた。彼の近況や旧友たちの噂話で、夜は更けていった。明日香のことも話題にのぼった。
 藤田は、つい口をすべらせたみたいに、明日香がときどき男といるところを見かけたりすると言った。藤田はそう言ったあとで、しまったという顔をした。景一が追求すると、藤田は気がすすまないようだったが、景一の顔色を窺いながら、訥々と語ってくれた。
 それによると――
 明日香の周りにいる男たちが彼女を放っておくはずはなく、つきまとう男が数人はいるようだ。その中の一人に、明日香の大学で講師をしている男がいる。特にその男といっしょにいるところを、よく見かける――
 藤田はそれだけしか話さなかったが、景一は、藤田は二人の関係を気づかって、それ以上のことを言いたがらないのだと受け取った。事実は明日香もその男に、多少なりとも恋愛感情を抱いているのではないのか、とつい疑ってしまうのだった。
 藤田の話は、やはりショックだった。
 景一にも東京にガールフレンドはいた。離れて暮らしている二人にとって、異性の友人の一人や二人、むしろいたほうが自然なのかもしれない。しかし、心が沈んでいくのをどうすることもできなかった。
 景一は、翌日も明日香に連絡できなかった。
 三日目の夜、明日香のほうから電話がかかってきた。
「どうして、すぐ連絡してくれなかったの?」
「なんとなく億劫だった」
「薄情なのね」
「離れていると、そうなる」
「一概に、そうとは言えないと思うけど……」
「先日、藤田が来た。君のことも聞いた。恋人がいるそうじゃないか」
「誰のこと?」
「君のことに決まってる」
「……どのひとのことを言われているのか、よくわからないんだけど」
「しらばっくれる必要はない。おれにだって一人や二人のガールフレンドはいる。それは、あたりまえなことだ」
「やめて、そんな話」
「事実は事実だ」
「……」
「べつに責めるつもりはない。もしそいつがいい男だったら、大切にしてくれ」
「勘違いしているんじゃない?」
「おれにとらわれるより、ほかの男をみつけたほうが、おそらく君のためだと思う」
「わたしのかってでしょう」
「そのとおりだ。ただおれの意見をいっただけだ」
「……」
「もう会わないほうがいいのかもしれない……」
「そんなのじゃないの。わたしはなんでもないのよ。ただあちらがかってに……」
「ふうん、でも、初めはそんなものだろう。おれのときもそうだったじゃないか」
「そんな、ひどい言いがかりだわ」
「……しかし、大学の講師ってのは君も趣味が悪いな。昔からおれは、その手合いが大嫌いなんだ」
「ひょっとしたら、あなた、妬いてるの?」
「……」
 景一は何もこたえられなかった。図星である。
 ややあって明日香は、
「うれしい」
「こいつ、……まあいいや」
「それは誤解よ。あなたが言ってるのは○○さんのことだと思うんだけど」
「やめてくれ。君の釈明が聞きたくて言い出したんじゃない。君が誰とどうしようと、君のかってだ。それに対して、おれがどうこうできる筋合いでもない。だけど嫌なんだ。嫉妬したり、うじうじ考え込んだりする自分が、みっともなくって見ちゃあいられないんだ。だから……」
「だから会いたくないと言うのね」
「……」
「ひどいわ。わたしのこと、そんなふうに思っていたのね。……わかったわ」
 その日の会話は気まずく終わった。

 年が明けて、正月二日のことだった。
 景一は実家の居間で、テレビを見ながらくつろいでいた。午後一時を回ったころ、玄関でチャイムが鳴った。応対に出た和子の頓狂な声と、客の華やかな声が聞こえた。明日香だった。
 あの日以来、互いに連絡していなかった。一週間が過ぎていた。
 久美子まで迎えに立ち、三人揃って居間に入ってきたとき、景一は思わず明日香に見とれた。振り袖姿が艶やかだった。
 女三人寄ればかしましく、パッとおしゃべりの花が咲き乱れた。ただ、うるさいだけである。景一は圧倒されて、ひとりポツンと取り残されたように黙って、明日香の顔ばかり見ていた。
 長い髪をアップにした髪型を横から見ていると、なんだか別人のようだった。白い襟足がきれいだ。
 明日香は視線を感じたのか、景一をチラリと見た。その眼差しが色っぽくて、思わずドキッと息をのんでしまった。
 それからしばらくして藤田が訪れ、いっそう賑やかになった。皆でトランプをしたり、ギターに合わせて歌ったりして、たのしく過ごした。
 遅くなったので、景一は明日香を送っていった。
 車を途中で乗り捨て、少し歩いた。
「明日、おふくろと久美子は親戚の用で出かける。よかったら、うちに来ないか」
 景一は明日香の家の近くで立ち止まり、そう言った。明日香は静かに頷き、表情のある目で景一を見上げて、何か言いたそうにしていた。
 そのとき二人は、明日が最後になるかもしれない、と感じているようだった。

 次の日の朝、十時ころに明日香は来た。
 和子と久美子は出かけるところだったが、明るく応対していた。景一はまだ布団の中にいて、階下の賑やかなやりとりを聞いていた。
 階段をトントンと鳴らして、明日香が部屋に入ってきた。寝たふりをしている景一の胸のあたりを叩きながら、
「コラッ、起きなさい」
「うるさいなあ、何時だと思っているんだ」
「もう十時過ぎよ。いつまで寝てるつもりなの」
「いつまで寝ようと、おれのかってだ」
 二人が言い合っていると、和子が上ってきて、
「アラアラ景一ったら、明日香さんに失礼ですよ。もういいかげんに起きなさい」と、景一を咎めるように言って、明日香に笑いかけながら、
「これから出かけますけど、この子の面倒よろしくお願いします」と、まるで子守でも頼むように言って、出ていった。
 しばらくして玄関のドアが閉まる音がして、和子と久美子の声が遠ざかると、家の中はシーンと静かになった。
 景一は相変わらず布団の中にいた。明日香はその枕元で、おとなしく座っていた。
「レコードをかけてくれ。『原子心母』がいい」
 ややあって、景一は言った。
 部屋の隅には、久美子の部屋から持ち出した小さなステレオと、数枚のレコードがあった。明日香は言われたとおりピンクフロイドのアルバムを探して、ターンテーブルに乗せた。
 間もなく耳慣れたブラスの、夜明けを連想させる前奏が聞こえてきた。
 景一は灰皿を寄せ、タバコに火をつけた。明日香は景一の動きを目で追っていた。二人は黙ったまま、曲に聴き入っていた。ギターの叙情的なサウンドが、やけに胸に迫ってきた。
 景一はレコードが終わると、さすがに観念して布団を離れた。
 洗面所に降り、顔を洗った。
 台所でまたタバコに火をつけ、
「腹へった」と、さも空腹そうな、情ない声を出しながら煙を吐いていた。明日香は含み笑いをしながら、
「なにが食べたいの? 愛情を込めて作ってあげるわ」
「君の手料理も久しぶりだな。おせちも雑煮もいいかげん飽きた。そこらを探して、何か食欲をそそるものを作ってくれ」と、冷蔵庫や食器棚を指差しながらいった。
「食欲は大いにありそうじゃない」
「いちいちうるさいなあ、何でもいいから早く作れよ」
「はいはい」
 明日香は、自分の家のように冷蔵庫や戸棚を調べながら、
「すぐにできるのは、うどんかスパゲティーくらいかなあ。それとも、ごはん炊きましょうか」
「そんなに待てない。じゃあ、とりあえずスパゲティーでいいや」
「とりあえず、なの?」と言って、明日香は明るく笑い、新妻のようにかいがいしく働いた。
 景一は奥の部屋で、新聞を見ながら待っていた。
 ほどなく、いいにおいを放ちながら料理が運ばれてきた。
 明日香は大きな皿を盆から取って景一の前に置き、小さい皿を自分の前に置いた。景一は、おふくろと同じようなことをするんだなと思って、興味深く見ていた。
「どうぞ、召し上がれ」
「うまそうだな」
 景一はすぐに箸をつけた。
「おいしい?」
「うん」
「もっと玉葱入れたほうがよかったかしら」
「こんなもんだろ」
「生意気言って、もっと褒めるべきよ」
「なかなかうまい」
「遅いのよ」
「そうか」
 食事を終え、タバコを吸っていると、明日香は後かたづけをすませて景一のそばに座った。しばらくテレビを見ていたが、明日香は退屈なのだろう、近くにある神社に行こうとしつこく誘った。
「行きたくないなあ」
 景一は外出するのが面倒らしい。
「だめよ、そんなに家の中にばかり居ては」と明日香は言って、景一を強引に連れ出すのだった。

 参道の両側には、いろんな出店が並んでいた。子どもたちが走り回ったり、親に泣きながらねだったりして、うるさいくらいの賑わいだった。
 明日香は景一の腕に凭れて、珍しそうに店の中を覗き込んでいた。風情をたのしみながら歩く明日香の足取りは、なかなか先へ進まない。景一はイライラしながらつきあっていた。
 風船屋を過ぎ、綿菓子屋を通り過ぎた所で、今度は景一の足が止まった。すぐそこに、たこ焼きの屋台が見えていた。プーンとソースのにおいがしてくる。中年のおばさんが、せかせかと手を動かして、手際よくたこ焼きをひっくり返していた。
 明日香はクスクス笑いながら景一を見上げて、
「食べたいの?」
「うん」
「さっき食べたばかりじゃない」
「あれくらいじゃあ、どこに入ったかわからないよ」
「ふふふっ、健康的だこと」
 明日香はたこ焼を一人前買って、裏手のベンチに座って待っている景一に手渡した。明日香も景一が食べている横から、ひとつだけ味見するようにつまんだ。
 境内は初詣の人たちが、けっこういた。明日香は賽銭箱に硬貨を投げ入れ、鈴を鳴らした。短い間ではあったが、掌を合わせ、真剣に祈っていた。
 顔を上げると、ただボンヤリと佇んでいる景一を咎めるように、
「あなたも何かお願いしなさい。せっかく来たんだから」
「いや、いい」
「お願いすることが、ないってわけじゃないんでしょう?」
「こういうの、趣味じゃない」
「ふうん」
 明日香は、おみくじを引きたいと言って、景一の手を取って歩き出した。誕生月ごとに並べてある掲示板のようなおみくじ売り場の前で明日香は、選んでほしいと頼んだ。景一は七月の中から一枚取り出し、明日香に手渡した。
 明日香はそれを開けて、
「吉だって、つまんないの」と、がっかりしたような声を出していたが、書かれてある小さな文字をたんねんに読んでいた。
 景一はそばにいて、活字を目で追う明日香の、妙にきまじめな横顔を見つめながら、
 ――君は神に何を祈り、今また、そんな紙きれに、何を求めようとするのか、と心のなかで呟いていた。

 帰り道、出店のおもちゃ屋で、思い出になるからと言って、明日香は兎の置物を買っていた。兎は、この年の干支である。その置物は瀬戸物でできていて、掌に乗るほど小さくて可憐だった。
 明日香はそれを掌に乗せて、指で背中を撫でながら、
「来年も、また来れるといいわね」と、兎に語りかけるようにして言った。
 家に戻ると、景一はスタスタと二階へ上がっていった。明日香も静かに後を追った。おもちゃ屋を出てから、二人はほとんど口をきいていなかった。
 景一が壁に凭れるように座ると、明日香は少し離れた所に腰を下ろした。
 不自然な沈黙が続いていた。
 しばらくして景一は、思い出したように立ち上がり、レコードをかけた。バッハの曲を、グスタフ・レオンハルトが演奏しているアルバムだった。
 チェンバロの哀切なメロディが、すぐに部屋にあふれた。
 一曲目が終わった束の間の静寂に、
「寒いわ、火つけてもいい?」と、明日香は景一にきいた。まだストーブもつけていなかった。
 景一が頷くと、明日香は石油ストーブに火をつけて、景一のそばに寄せた。そのときいっしょに、明日香も景一の近くに座った。景一は、ただ無心にチェンバロの音色に聴き入っていた。
 繊細な旋律が、やけに胸に滲みる。
 しばらくして明日香は、何も話そうとしない景一にしびれをきらしたように、
「わたし、あなたが何を考えているか、わかるわ」
「……」
「わたしと別れたいんでしょう」
「そうするしかないと思っている」
「……」
「これっきりにしよう」
「どうして?」
「そんな、わかりきったことをきくもんじゃない」
 景一は、ムッとしたように言った。
「そうよ、わかっていたわよ」
 明日香も怒ったように顔を上げ、景一を見つめた。
「あなたは、それでいいのね。わたしと別れたら、さぞさっぱりしていい気分になれるんでしょうね。でも、わたしはどうなるの? わたしのことなんか、ちっとも考えてくれないのね!」
 景一は、意外な明日香の反応にとまどっていた。
「きっとそうだわ。これからわたしがどうなるかなんて、あなたは一度も考えたことはないんだわ。あなたにとって、そんなことはどうでもいいことなんでしょうね、きっと。いいわ、わかったわ、別れてあげる! むりに引きとめるほど、わたしだってバカな女じゃないのよ。別れてあげるわよ。どうぞご自由に!」
 明日香はプツンと口をつぐんだ。
 景一は次の言葉を待っていたが、
「もういいのか」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない」
「おこってる?」
「いや、むしろスッキリした。……君の言うとおりだ。すべての非はおれにある」
「……」
「悪いけど、もう帰ってくれ。独りになりたいんだ」
 明日香は動こうとしなかった。
 ややあって、諦めたように立ち上った。
 だが、ドアの前でまた立ち止り、どうしようかと迷っているようだった。
 景一は視界の端で、明日香のようすをじっと見ていた。
 明日香はじれったそうに、
「ねえ」
「なんだ」
「キスして」
 小さな声である。
 景一は静かに近づいた。明日香は恥ずかしそうに俯いていた。肩に触れると、少し震えていた。閉じた睫毛が濡れている。
 景一は思わず抱きしめてしまった。
「君のことで、ずいぶん悩みつづけた。あの夏、君が東京を去った直後からだった。……今は何もできそうもない。それが辛いんだ」
「わたし、あなたのことが心配なの。何かに苦しんでいるあなたの、深刻な顔が浮かんできたりするの。……わたし、別れたくない」
 景一を見上げる眼が一途だった。涙に濡れて、キラキラと美しく輝いて見えた。景一はたてたばかりの誓いを破って、明日香を強く抱きしめた。もう二度と明日香を抱くまいと決めていたのに……。
 このまま、いつまでも抱きしめていたかった。世界の果てまで明日香を連れ去り、どこまでもいっしょに歩いて行きたかった。すべての束縛を断ち切り、明日香を奪って逃げよう。今ならそれができる!
 景一の胸に、嵐のような情熱が駆け巡り、そして走り去っていった。

 翌日、景一は明日香の知らぬ間に故郷を後にした。
 東京に戻って一週間後、慌ただしく引っ越しをした。
 母親をはじめ、だれにも引っ越し先を教えなかった。
 それ以後景一は、二度と明日香へ連絡することはなかった。


                  ◇
 小さな花びらが枝を離れ、景一の足元にそっと落ちた。
 駅からアパートへ帰る道路沿いに、塀のない玄関脇に、大きな桜の木を植えた、古風な感じの邸宅がある。
 数日前、初めて可憐な花びらを目にしたとき“ああ、春になったんだな”と思っただけで、すぐに通り過ぎた。ところが今日は、容易に立ち去り難い。
 景一は昨夜明日香から電話をもらってから、一睡もできなかった。体は疲れきっていたが、頭だけはスッキリと冴えていて、そして妙に感傷的な気分に陥っていた。
 ――風もないのに花は散る。こんなに美しい花びらが、散り急ぐようにして散っていくのはどうしてなのだろう。
 景一の心には、明日香の姿が二重写しになっているようだった。明日香は、二十三歳の若さで、どうして結婚を急ごうとするのか、と。
 大きく広がった満開の枝を見上げていた。長くのびた枝のさきまで、花が咲き満ちている。晴れわたった青空に、白い花弁が鮮やかに映えている。花々の色彩は、景一の胸のなかにまで映ってくるようだった。
 景一は、明日香と過ごしたあの夏の日の、最後の夜のことを思い出していた。
 明日香は景一に体を寄せながら、
「ねぇ、わたしと結婚してくれる?」と、唐突に言った。
 すると景一は、
「いいよ」と、あっさりとこたえた。
「本当に?」
「ああ、本気だ。いつか時が来れば……」
「それ、いつのことなの」
 景一は、明確にはこたえられなかったが、その言葉に嘘はなかった。
 しかし、その“時”は、永遠に来ないのかもしれない……。

 すぐそばを、赤子を背負った婦人が通りかかった。赤子が、
「アー、アー」と声を出すと、
「そうね、きれいな桜ね」と、母親は話しかけていた。
 明日香は子どもが好きで、家庭的な女性である。小さいころから、花嫁姿に憧れていたといっていた。このまま景一が態度を曖昧にしていたら、明日香は、強く結婚を迫る男に、その気がなくても、つい引き寄せられてしまうかもしれない。
 景一は、知らない男に寄り添う、明日香の姿を想像してみた。瞬間、胸に鋭い痛みが走った。体の一部を、もぎ取られるような痛みだった。苦しくて、声を上げそうになった。
 ――どうしてなんだ。……どうしておれは、こんな苦痛に耐えなければならないのだ。どうして、……どうして明日香は、あの日の約束を信じようとしないんだ。どうして、……いったいどうして、おれはこんな生き方しかできないのだ!
 景一は、わが胸に問い質した。何度も繰り返し問い続けた。涙が溢れてきて、頬に流れた。人目をはばかり、思わず下を向いていた。
 アスファルトの路面には、無数の花びらが散らばっていた。
 桜は、散ったあとも美しかった。


第五章

 明日香は帰宅すると、門の脇にあるポストを開けて、中を覗いた。母親が調べたあとなのか、何も入っていなかった。下駄箱の上も見た。ときどき明日香への手紙などを置いていることがあるからだが、ここにも何もなかった。
「ただいま」と声をかけると、台所で母の声がした。二階にある自分の部屋に上がった。机の上を見たが、やはり手紙はきていなかった。
 明日香はがっかりして、ベッドに腰を下ろした。なんだか急に、一日の疲れが出てきたような感じだった。
 景一に電話してから、もう二週間になる。景一は最後に、手紙を必ず書くと約束してくれた。翌日から明日香は、手紙の届くのを待ちわびていた。特にここ数日、仕事が明けると、お茶や食事の誘いも断って、まっすぐ帰宅していた。
“どうしたのかしら”と明日香は、景一のことを、考えるともなく考えていた。
 長くなった日もようやく暮れかけていたが、明日香は電灯もつけずに、そのままボンヤリとしていた。
 しばらくして、階下から母の呼ぶ声がした。
 明日香は重い腰を上げて台所へ降りていくと、母は夕食の支度に追われていた。貞子は明日香の顔を見ると、
「悪いけど、手伝ってくれないかしら」と、すまなそうに言った。
 明日香は、学生のころは食事の支度などよく手伝っていたが、勤めるようになってからは、貞子がひとりでするのがふつうになっていた。
 貞子は昼間所用で出かけていて、さっき買い物をしてきたばかりらしい。揚げ物をするので具にパン粉をまぶしてほしい、と明日香に頼んだ。その間に貞子は、おみおつけとサラダを作るそうである。
 貞子は話しながら明日香が元気のないのに気づいて、
「どうかしたの?」と、心配そうにきいた。
「ううん」と、明日香はむりに微笑んで見せた。
「あら、まだ着替えてもいないのね」
 貞子は、初めて気づいたように言った。明日香は外出着のままだった。
「粉が付くから、着替えたほうがいいわよ」
 貞子は、服が汚れるのを気づかっていった。
「平気よ」と、明日香は明るい笑顔で言って「久しぶりに手伝うか」と、元気を取り戻すように言った。そして、いすにかけてあるエプロンを身に付けてから、ボールに小麦粉を入れたり、溶き卵を作ったりしていたが、しばらくして、
「やっぱり、着替えてくる」と言って、貞子を笑わせるのだった。
 明日香は、Tシャツとジーンズに着替えて降りてくると、エビやアジなどに、溶き卵やパン粉などを手際よくまぶしていた。明日香はもともと料理が好きなほうなので、そのうち流行歌など口ずさんだり、何かをこぼしたとかで、ひとりで頓狂な声を出したりしている。
 それが終わると、貞子のそばにきて、貞子を笑わせながらサラダを作ったりして、すっかりいつもの明日香にもどっていた。
 支度が整い、テレビを見ていると、
「ありがとう、助かったわ。どうぞ召し上がれ」と貞子は言って、明日香の前にオレンジジュースの入ったコップを置いた。明日香は、
「ありがとう」と、こたえてジュースをひと口飲んで、
「お父さん、早く帰ってくるといいわね」と言った。貞子もいすに座って、
「今日は、早く帰れそうだと言ってたから、もうそろそろだと思うわ」
 六時半になろうとしていた。
 父親の正太郎は、大手の医療品メーカーで人事を担当している。今月は、新入社員の研修などで遅くなる日が多かったが、それもやっと落ち着いたようだった。
 間もなくチャイムが鳴り、
「ただいま」と、正太郎の声がした。貞子が立とうとすると、
「いいわ、わたしが行くから」と明日香は言いながら、席を立った。
 明日香が迎えに出たのが意外だったらしく、正太郎は顔をほころばせながら、
「なんだ、明日香か」
「なんだは、ひどいわ」
「ごめん、ごめん、早かったんだね」
「ええ、今日はわたしも食事手伝っているんだから、ちゃんと食べなきゃだめよ」
「ハハハッ、そうか。それは、さぞおいしいものができるんだろうね」
 二人が並んで食堂に入って来ると、
「お帰りなさい」と貞子は声をかけ、正太郎と奥へ行った。
 正太郎がフロに入っている間に、貞子はフライを揚げ、明日香はきれいに飾りつけをした。
 フロ上がりの血色のいい顔をした正太郎がテーブルにつくと、明日香はビールを注いでやりながら、
「今日も一日ごくろうさまでした」
 正太郎は目を細めながら、
「なんだか、今日の明日香はおかしいぞ」
「そうなんですよ、早く帰ってきてボンヤリしているかと思うと、急にはしゃぎだしたりするんですよ」
 貞子が横から口をはさんだ。すると正太郎は、
「ほう、さては何かあったんだな。そうだろ明日香」
「なにもないわよ」
「かくさなくてもいいよ、親子なんだから」
「いやなお父さん、年ごろの娘は、なにかと難しいのよ」
 正太郎と貞子は、噴き出すように笑った。
 正太郎は機嫌が良かった。先日連れて来た新入社員の品定めをしながら、
「あんまり明日香が美人なんで、皆あがっちゃったってさ」と言って、明日香をからかったりしていた。そして食事を終えても、なかなか明日香を離そうとはしなかった。
 それから一時間近く、明日香は正太郎の相手をしていた。
 二階に上がって独りになると、明日香は急に淋しくなった。調子にのって、父親が注ぐままにビールを何杯も飲んだのが、今になって回ってきた。そのせいか、ひどく感傷的な気分になっていた。
 景一のことを、つい考えてしまう。
「ちっきしょう、景一のバカ!」
 声を出して怒ってみた。だが、虚しさが残るだけだった。
 パンダが明日香を見て笑っていた。
 ベッドの棚の上に、パンダのぬいぐるみがチョコンと座っている。それは景一との思い出の品だった。
 四年前の夏、浅草の仲店で見つけた物だった。
「かわいい」と、明日香がそれを抱き上げると、景一はニコニコ笑いながら、
「君にあげるよ」と言って、買ってくれた。
 景一と過ごした、あの夏のことが胸にうかんできた。短い間だったけど、お伽噺のようにたのしかった。一生忘れられない思い出である。
 ステレオのスイッチを入れ、プロコルハルムの『青い影』に針を落とした。
 それは明日香が十八歳になった誕生日に、景一がプレゼントしてくれたレコードだった。懐かしくて、切ないメロディーが部屋を満たしていった。
 明日香は『青い影』を何度も繰り返し聴きながら、ため息ばかりついているのだった。
 二日後のこと、明日香を驚かす出来事があった。
 一日の授業も終わり、担任の四年二組で夕礼をしている時だった。
 明日香は、きれいに清掃されてある廊下を点検して、教室に入った。席を離れて遊んでいる生徒たちに大声で、
「はい、みなさん、席に着いて」
 生徒たちはサッと着席したが、一番後の席の男の子が頓狂な声を張り上げて、
「アッ! 先生、ここに水がこぼれたままだよ」と、大発見でもしたような口ぶりで言った。当番の生徒が、拭き取るのを忘れたのだろう。
「そう、じゃあ田村君、拭いてあげてちょうだい」と、明日香がその生徒に言うと、
「いやだよ、だって僕、教室の当番じゃないもん」
 不服そうである。すると隣の女の子が口をはさみ、
「いいじゃないの、ちょっとくらい手伝ったって」
「何だよ、じゃあ、おまえやれよ」
 室内はガヤガヤと騒がしくなった。明日香は静かにさせようとして手を強く叩いて、
「はい、いつまでもそんなことで騒いでないで……」と言いながら廊下に視線を走らせた。白っぽい服を着た長身の男性が現れ、教室のようすを窺っている。明日香は、生徒の父兄だろうと思い目を凝らした瞬間、強烈な衝撃に打たれた。目を疑い、さらに凝視した。まちがいなく、それは景一だった。
 景一は爽やかにほほえんでいた。明日香は狼狽しながら、
「みなさん、ちょっと待っててね、先生にお客様が来ているから」と生徒たちに言ってから、景一に近づいてきた。
「やあ」と、景一は声をかけた。
「やあ、じゃないわよ。……ああ驚いた」
 明日香は、さも驚いたように言った。
「ハハッ、そうとうびっくりしたみたいだな」
「あたりまえでしょう。……いつ帰ってきたの?」
「一時間くらい前だ。……ところで、その服、制服なのか?」
 景一は、明日香がTシャツの上に着ているエンジのジャージを指差して言った。
「制服じゃないけど、チョークで汚れるから」
「ふうん、なかなか似合っている。先生って感じだ」
「だって、先生なんだもん」
「らしいな」
 二人は見つめ合って笑った。明日香は近くにある喫茶店で待つように頼んで、
「なるべく早く行くわ」
「わかった。……ああそうだ、いつか話してた、おれによく似た子って、どの子だ」
 景一は、先日の電話で明日香が、クラスに景一の少年時代を彷彿させる生徒がいる、と言ったことを思い出したらしい。明日香の指差す男の子は、周りの生徒たちがザワザワしている中で、ひとりきまじめな横顔を見せて静かにしていた。そのようすが、明日香の話と裏腹でおかしかった。
「フーン、なかなか賢そうな子だ。でも、ばかに澄ましているじゃないか」
「ふふふっ、そういう時もあるわ」
 と明日香は笑って、教室に入って行った。景一はなおしばらく明日香の先生ぶりを見学していた。明日香は少しドギマギしていたが、いつか景一の姿は見えなくなっていた。
 四十分ほどして、明日香は待ち合わせの喫茶店に駆けつけた。景一の姿が見当たらない。“どうしたのかしら”と、もう一度店内を見渡したが、やはりいなかった。
 しかたな入口に近いボックスに座った。
“もしかしたら、あのままどこかへ行ってしまったのではないかしら”と、少し不安になった。景一ならやりかねないことである。
 ややあって、景一は何もなかったように姿を現し、明日香を見つけると、
「早かったんだな」
「もう、いないから心配していたのよ。店をまちがえたんじゃないかしらって」
「ちょっとブラブラしていたんだ」
「何をしでかすか、わからないんだから」
 明日香は、シートに腰掛けようとする景一を目で追っていた。ブルーのTシャツ、アイボリーのジャンパーに、色褪せたブルージーンズ、そして足元は白いスニーカーという、いたって気楽な装いである。
「何をそんなに珍しそうに見ているんだ」
「だって、こんな話ないわよ。わたし、本当にびっくりしたんだから」
「おれだとわかった君の顔はおかしかったよ。眼を、こぼれるほど大きく見開いていた。予想以上の効果だった」
「ばか!」
「ハハッ、それはいいが、腹がへった。何か食べに行こう」
「なによ、久しぶりに会ったのに、そんなことしか言えないの。怒るわよ」
「おれは長旅をしてきたばかりなんだ、腹もへるさ」
「もう、いつもこうなんだから」
 二人はそこを出て、軽い食事を取った。商店街を歩き、ゲームセンターで時間をつぶした。ようやく暗くなり、明日香の知っているパブに入った。まだ時間が早いせいで、客はまばらだった。
 奥の席に座ると、見覚えのあるウエイターが近づいてきた。ボーイフレンドと明日香の名前でボトルがキープされてあるが、景一の手前それを出してもらうのもためらわれたので、新たに注文した。テーブルに置かれたボトルに相合い傘を書き、寄り添うように景一と明日香の名を書いた。
 明日香は水割りを作りながら、
「おばさんに連絡しましょうよ」
「どうするかな」
 景一は、まだ実家に立ち寄るつもりはないようだった。
「顔ぐらい見せてあげないと、かわいそうだわ」
「考えておく」
 二年ぶりの邂逅を祝して乾杯した。明日香はひと口飲んだだけだったが、景一は無造作に半分くらい飲んでしまった。
 明日香は、景一にきいてみたいことが胸にぎっしり詰まっているのに、なかなか言葉にできないでいた。
「今、何してるの? ああ、ガードマンだっけ」
「うん」
「たのしいの?」
「そうだな」
 次の言葉が出てこない。会話は途切れがちだった。
 雰囲気をやわらげるように、ピアノの音がながれてきた。
 フロアーの中央にグランドピアノがあり、アルバイトのピアニストと思える若い女性が『ある愛の詩』を弾きはじめたのだった。
 明日香は、ピアノの叙情的な旋律をききながら、薄い水割りを思い出したように口にふくみ、景一を見てばかりいた。
 唐突な訪れは、いかにも景一らしかった。明日香に会いたくなって、衝動的に列車に乗り込んだようである。明日香は、そんな景一が、めちゃくちゃ好きだ。目の前にしているだけで、幸せな気分になれるのだった。
「ねえ、何か歌いましょうよ」
 明日香は言った。
 この店では、リクエストすると、ピアノの伴奏に合わせて歌うことができるらしい。
「君が歌うのなら、考えてもいい」
「えーっ、困ったなあ」
 明日香は、さも困ったように言った。
「歌ったことはあるんだろ」と、景一がきくと、
「ええ、ときどき」
「ほお、それはぜひ聴いてみなくてはいけない」
「なによ、そんな不思議そうに言わなくてもいいでしょう。子どもたちの前では、いつも歌っているんだから」
「ハハハッ『子どもたちの前では』ってのはいいフレーズだな。じゃあ、おれの前でも歌ってみせろよ」
「いやだなあ……でも、あなたが歌うのなら、わたしも歌うわ」
「よし、じゃあ、もう少し飲んでからだ」
 店内はだんだん客が増え、空席はあまりなくなった。それにつれて、歌う客も多くなった。演歌が大半である。
 明日香は歌詞カードをパラパラとめくりながら、
「どんな曲がいいかしら。あなたに演歌は似合わないわね。……チューリップなんかどう? ここにあるけど」
「『心の旅』なら歌えるはずだ」
「ワッ、すてき! 『心の旅』にしましょう」
「それでもいい。……で、君は何を歌うつもりなんだ」
「ふふっ、ないしょよ」
 明日香はテーブルに置かれてあるリクエストカードを二枚取り、サラサラと鉛筆をはしらせた。明日香がそれをウエイターに手渡すと、しばらくして、
「庄司様、チューリップのナンバーから『心の旅』よろしくお願いいたします」と、景一を促すアナウンスが流れた。
 景一はピアノに近づき、マイクを手にして、歌詞カードに目をおとしていた。
 間もなく聞き覚えのある前奏が流れ、景一は張りのある声で歌い始めた。
 チューリップのボーカルに、どことなく似ている。高音が澄んでいて伸びがあり、サビの部分を繰り返すところが、感情が込もっていて真に迫っていた。
 景一が歌い終わると、大きな拍手がわいた。
 明日香は、テーブルに戻ってきた景一にもう一度拍手しながら、
「さすがだわ。今からでも遅くないから、ミュージシャン目指してみればいいのに」
 景一は苦笑しながら、少し照れていた。
 次は明日香の番である。
「水森明日香様、チェリッシュのナンバーから『若草の髪飾り』よろしくお願いいたします」と、アナウンスが流れると景一は、
「へえ、チェリッシュだったのか」と、うれしそうに言った。すると明日香は、
「わたし、がんばる」と、はしゃぐような仕種をして席を立った。
 明日香がマイクを持つと客の中から声援がとび、笑い声とともにパラパラと拍手が起こった。明日香はそのせいで上がったのか、出足をまちがえたようである。頭を掻きながら「アレレ?」とか、間の抜けた声を出していたが、すぐに立ち直り、きちんとピアノの伴奏に合わせて歌い始めた。
 明日香はこの曲が好きで、歌詞を暗記していた。歌いながら景一に視線をやると、景一もこちらをじっと見ている。耳を澄まして聴いているようだった。明日香は恥ずかしくなって、慌てて見なくてもいい歌詞カードに目を落とした。
 ふだんは酔った勢いで、めいっぱい振り付けをして歌うこともあるが、今日は手足で軽くリズムをとる程度にして、歌うことに専念した。
 曲が終わると一段と大きな拍手がわき、奥のボックスから指笛とともに「アンコール、アンコール」と叫ぶ、酔漢のおどけた声がした。笑い声の中で明日香はちょっととまどっていたが、ペコンとお辞儀をして、その場を離れた。
 テーブルに戻ってきた明日香に、
「ふーん、なかなかやるじゃないか」と景一は、感心したように言った。
「ほんとに?」
「うん、素直でいい声だ」
 景一に褒められたのがうれしくて、明日香は減ってもいない景一のコップにウィスキーをたして、水割りを作ったりしていた。

 ボトルはすでに半分くらいに減っていた。ほとんど景一ひとりで飲んだものである。
 景一は飲んでばかりいて、いつまで待ってみても、明日香のいちばん聞きたいことに触れる気配もない。
“プロポーズされたこと、どう思っているの?”
 口許まで出かかっていた言葉は、景一の隙のない態度を前にすると、スーッと引いてしまい、ただ時間だけが過ぎていった。
「これからどうする?」
 明日香は腕時計をチラリと見て言った。自宅に電話しなければならない時間である。明日香は、景一しだいでは、外泊するかどうかを決めなければならなかった。
「何時だ?」
「九時四十五分よ。……あなたにまかせるけど」
 景一はちょっと思案するようだったが、
「帰る」と、ポツリと言った。
「帰るって、どこへ?」
「東京だ」
「どうして、せっかくだからゆっくりすればいいのに」
「急に君の顔が見たくなっただけだ。目的はもう果たした」
「だめよ、そんなの。お願いだから、おばさんにも会ってちょうだい」と明日香は、力を込めて言った。このまま景一を帰したのでは、景一の母親に申し訳ないと強く思った。それにもう、東京行きの電車はないはずだ。
 景一は一瞬黙っていたが、すぐに、
「わかった、家に寄ることにする」と、素直に折れた。
「それがいいわ」
 明日香は安心して言った。すると景一は、
「そろそろ出るか」
「もう少し居ましょう」
「いや、帰るとなると早いほうがいい。おふくろの顔が見たくなった」
 せっかちな景一らしいと思い、それ以上引き止めなかった。
 店を出て、タクシーを拾った。そこからは景一の家のほうが近い。少し走ったところで明日香は、
「久しぶりに、おばさんや久美ちゃんに会っていこうかしら」と言ったが、遅いから、と断わられた。別れ際、
「電話するわ」と明日香が言うと、景一はちょっと考えて、
「いや、おれのほうからする」と、突き放すように言った。明日香は、
「おやすみなさい」と手を差し出した。景一は軽く手に触れ、
「必ず電話するよ」と、ほほえんで言った。
 景一が降りて、歩いて行くそばを車が通り過ぎたとき、明日香は振り返り、景一の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

 景一は家の前まで来ると、ふーっと深いため息をついた。ずいぶん飲んだようである。玄関のドアを開けようとすると、厳重に鍵がかけられてあり、びくともしなかった。
 インターホンを押すと、
「どなたですか」と久美子の、ツンとすました改まった声がした。
「おれだ、お兄様のお帰りだ」
「えーっ! うっそぉー、景ちゃんなの?」
「ばか、嘘をこんなにまじめにつけるか。早く開けろよ」
 鍵を開け、なんやかやと騒ぐ久美子を置き去りにして、景一はスタスタと奥へ入っていった。和子は玄関のようすで景一の帰宅を知り、部屋を出ていこうとしたところで景一と顔を合わせた。
「やあ、久しぶり」
「どうしたの? ああ、びっくりした。連絡くらい、してくれればいいのに」
「急に思い立ったんだ」
 和子は景一の酒気をおびた顔を見て、察しがついたようだった。
「おフロどうする。わたしたちはもう済ませたんだけど」
「いや、いい。それより酒あったらくれよ」
「まだ飲み足りないの?」
「一杯でいいんだ」
 和子は台所へ行くようだった。
 久美子が入ってきて、景一の向かいに座った。テレビがついていた。ミニスカートのアイドル歌手が、学芸会のような身ぶりで歌っていた。
「お酒飲んできたのね。誰といっしょだったの、連絡もしないで」
 久美子は、いたずらっぽく言った。
「うるさい、電車の中でだよ」
「本当かなあ」
 久美子は、ニタニタして景一を見ていた。隠さなくてもわかっている、とでも言いたそうだった。
 久美子と顔を会わすのは二年ぶりだった。ずいぶん大人っぽくなったな、と景一は思った。オレンジ色の、フワリとしたトレーナーを着ていたが、その上からでも、成熟した肉体を感じさせるものがあった。
「今年でいくつになるんだ?」
「十八よ。妹の年も忘れたの」
「いちいち憶えていられるか」
「景ちゃんは来月で二十四歳になるんでしょう?」
「そうだな」
「わたしはちゃんと憶えていたわよ」
「それはよかったな」
「もう! すぐ、そんな口のきき方をするんだから」
 互いにぞんざいな口をききながらも、しみじみとした肉親の情を、感じているようだった。
「やっぱり、あったわ」
 和子は、ウィスキーの瓶を両手で大事そうにかかえながら入ってきて、言った。二年前、景一が帰省したときに残していった物らしい。
「へえ、物持ちがいいんだな」と景一は感心したが、母娘二人暮らしであれば、あたりまえなのかもしれない、とも思った。
「何か、おつまみ作りましょうか」と和子が言うと、景一は、
「腹がへった。焼そばでも作ってくれ」と、さも空腹そうに言った。久美子も食べたいと言い出すと、和子もほしくなったらしく、久美子に、
「じゃあ二人前作って、お母さんと久美ちゃんが少しずついただいて、あとは景ちゃんにまかせることにしましょう」
 景一は二人の会話がいかにもうるさいようで、
「どうでもいいから早く作れよ」
「はいはい」
 和子はまた台所へ立っていった。
 久美子は学校の話などしていた。
 久美子の通っているK高校は、景一の母校でもある。久美子の担任の内村先生は、景一の高校三年の担任でもあった。
「内村先生がねえ、景ちゃんのこと『あいつは変わった男だった』って言ってたわよ」
「そうか」
「わたしが妹だとわかってからは、景ちゃんのことをよく話してくれるの。高校時代の景ちゃんて、よっぽど目立つひとだったみたいね」
「そうだな」
 景一は気のない返事をしていたが、やはり懐かしかった。
「お待ちどおさま」と言って、和子はソースのにおいを放ちながら料理を運んできて、焼そばを山盛りにした大きな皿を、景一の前にドンと置いた。景一は野菜のたっぷり入ったのが好きなので、二人前となると、ずいぶんな量になった。それを直接食べている景一の横から、和子と久美子は小さな皿に取って食べていた。
 和子は二度つまんだだけでやめたが、久美子は何度も横から箸を出していた。景一はそれが気に入らないらしく、
「こら、あんまり手を出すなよ。うるさいやつだなあ」と、意地悪く言った。すると久美子も負けてはいない、
「なによ、ケチケチしなくてもいいでしょう、まだそんなにたくさんあるんだから」と、たわいのない兄妹げんかである。和子は二人を見ながら、しきりに笑っていた。
 景一はきれいに平らげると満足そうに、
「ああ、食った食った。食うだけ食ったら眠くなった。おふくろ、布団敷いてくれよ」
 すると久美子が、
「なによ、もう少し起きていなさいよ。まだお母さんと何にも話していないじゃない」
「うるさい、いいかげん酒も回ってきた。あとは、あしたあした」
「景ちゃん、ゆっくりできるんでしょう?」
 和子が言った。
「せっかくだから、気がすむまでいるよ」
「じゃあ、今日は寝てもいいわ」
 久美子が生意気な口ぶりで言った。
「おまえの許可などなくても、寝るに決まっている」
 しばらくして、景一は二階へ上がった。
 横になった景一の耳に、ボソボソと二人の話し声が聞こえてきた。景一のことを話題にしているようだ。それを聞きながら、間もなく寝入った。

 次の日の朝、景一は九時過ぎに床を離れた。久美子が登校したあとだったので、家の中は無人のように静かだった。
 下に降りると、和子は居間のテーブルで家計簿を広げて書きつけをしていた。景一に気づくと顔を上げて、
「おはよう、よく眠れた?」
「うん」
「おなか、すいたでしょう」
「そうだな」
「ちょっと待っててね、すぐ終わらせるから」
 和子は、また家計簿に目を落とした。
 景一は部屋の隅にあるソファーに座り、せかせかと手を動かしている和子の横顔をボンヤリと見ていた。和子は今年で四十七歳になるはずだ。実際の年齢よりもずいぶん若く見られるようだが、以前より少し老けこんだような気がした。
 庄司家の家計は、清の残した厚生年金と、銀行預金の金利に頼っている。両方合わせてどれくらいの収入になるのか、景一は正確には知らなかったが、おそらくたいした額にはならないにちがいない。暮らし向きは、ひょっとすると苦しいのかもしれない。
 やがて和子は家計簿を閉じて、
「よしと……味噌汁の具は何がいい? 韮の卵とじにしましょうか」
「そうだな」
 景一は気のない返事をしていた。まだ頭がボーッとしていた。
 和子が食事の仕度に取りかかると、景一は洗面所に立った。顔を洗うと、多少スッキリしてきた。
 居間に戻ると、ステレオのスイッチを入れ、ベートーベンの『田園交響曲』をかけた。耳慣れたメロディが流れてきて、瞬く間にのどかな田園風景が眼前に大きく広がった。
 ずいぶん懐かしかった。わが家に帰ってきた、という実感がした。
 景一の家庭では、テレビをつけている時間より、ステレオを聴いている時間の方が多かった。和子はクラシック音楽が好きで、中でも『田園』をよく聴いていた。『田園交響曲』は、わが家のテーマソングの感があった。
 和子が食事を運んでくると、
「わが家って感じだ」と、景一は声をかけた。和子も『田園』のこととわかって、
「そうかもしれないわね」と、うれしそうにこたえた。
 テーブルに並べられたものは、景一の大好物ばかりだった。生ハム、辛子明太子、冷や奴、白菜のおしんこ、それに韮と卵とじのおみおつけである。これだけ揃えば充分だった。景一がおかわりをするたびに、和子はいそいそと台所に立っていった。
 景一が食事を終えて満足そうにタバコを吸っていると、和子はお茶を飲みながら景一をじっと見ていた。景一は和子の気持ちをはぐらかすように、
「最近、何かいいレコード手に入れた?」と、きいた。
「そうね、二ヵ月くらい前に、久美ちゃんが『レイラ』買ったわよ」
 前回帰省した折、景一は十枚近くレコードを持ち帰った。その中に和子の言った、エリック・クラプトンの『愛しのレイラ』もあった。久美子だけでなく、いつか和子もロックやポップスも聴くようになった。景一に影響されたせいであるが、ビートルズやエリック・クラプトン、ピンクフロイドなどが和子のお気に入りのグループだった。
「『レイラ』聴きながら、よく景ちゃんの噂していたのよ。しようのない人ねって」
「どうせ二人で、好きかってなことを言ってたんだろ」
「まあ、そんなところね」
 会話が途切れると、和子はまた黙って景一を見つめていた。景一は、くすぐったくてじっとしていられない。
「どうしたんだ? さっきから何か言いたそうじゃないか」
「うん」
「なんだよ」
「うん」
「変な女だなあ」
 景一は、うん、うん、と頷く和子の仕種が、子どもっぽくておかしかった。
「あのねえ」
「なんだよ」
「このごろときどき、あなたのお父さんのことを思い出すことがあるの」
「道雄さんのこと?」
「そう」
 景一の実父のことである。
「ふうん」
「あのひとのことを考えていると、いつの間にか景ちゃんの顔が浮かんでくるの。あなたは顔はもちろんだけど、性格もお父さんによく似ているわ。……あのひとは、いつも張りつめているような人だった」
 和子は、道雄の面影を追うようにしてつづけた。
「あのひとのことを思い出していると、いつか景ちゃんと二重写しになるの。そうすると急に景ちゃんのことが心配になってくるの。なんだか景ちゃんが、わたしたちから離れて、遠い所へ行ってしまいそうで、居ても立ってもいられなくなるのよ」
 景一はギクリとして何もこたえられなかった。
「あのひとのことを考えるなんて、お父さん(養父の清のこと)の生前には、ほとんどなかったことよ。お父さんがあんなふうになってからは、景ちゃんのことがいちばん心配なのよ。そんな景ちゃんへの気持ちが、あのひとのことを思い出させるのかもしれない……」
 今日は土曜日なので、もうじき久美子は帰宅するだろう。和子は、景一と二人っきりでいられるのは今しかないと考えて、あえて景一への思いを打ち明けているにちがいなかった。

 その日の夜、藤田が訪ねて来た。
 藤田は、三年前に大学を中退していた。今は大学時代の仲間たちとロックバンドを組み、天神にあるクラブで演奏している。
 藤田は青春の夢を捨てず、今なお追い続けていた。景一はそれがうれしかった。
 景一も一度はギターで身を立てるという、幼い夢を懐いたことがあった。自分が果たせなかったものを、藤田が代わりに実現しようとしてくれているようで、羨ましくもあり、頼もしくもあった。
 音楽を語る藤田の瞳には、以前と変わらぬ輝きがあった。二人はグラスを酌み交わしながら音楽談義に花を咲かせ、時を忘れた。
 床に就いたのは、朝の五時近くだった。藤田は景一の布団でいっしょに眠った。
 翌日の夜、藤田と二人で吉村のもとを訪れた。吉村は、高校時代の友人である。
 吉村は、景一たちの仲間の中でいちばんの秀才だった。考古学者になり、邪馬台国の謎を解明することが、彼の長年の夢だった。
 吉村はK大学の文学部に、現役で合格した。だが三年になる時、学部を変更して経済学部に編入した。その時点で、考古学者への夢は捨て去ったらしい。その経緯を語ろうとはしなかったが、どうやら両親に説得されたようである。
 吉村の父親は、天神で、比較的大きな百貨店を経営している。長男である吉村は、今は大学を卒業して、家業を手伝っている。いずれは、父親の事業を引き継ぐことになるだろう。
 吉村は相変わらず切れのいいジョークをとばしてはいたが、ふとした表情に深い翳りがあった。中国や日本の古代史を熱っぽく語っていた吉村、あのころの吉村が景一は大好きだった。今の吉村を見ていると、なんだか裏切られたような気持ちになる。
 久しぶりだからゆっくりしていってくれ、と言う吉村の誘いを断り、九時過ぎにそこを出で、藤田と二人で、居酒屋へ行った。
 帰宅すると玄関の鍵は開いていたが、母はもう寝ているようだった。
 景一は静かに二階へ上がった。
 すでに布団が敷いてあった。景一はゴロリと横になり、吉村や旧友たちのことを考えていた。
 吉村の懐いていた夢、それはどこへいってしまったんだろう、と思った。苦悩の果ての結論であることはわかっていた。しかし、両親の意向で夢を捨ててしまうなんて、景一には理解できなかった。
 吉村に対して、どうしても批判的な見方をしてしまう。
 景一は帰省して旧友たちに合うたびに、いつもある寂しさを感じた。吉村だけでなく、多くの友人たちが青春の夢を忘れ去ってしまい、この街で家業を継いだり、平凡なサラリーマンで一生を終えるつもりらしかった。
 景一には、そんな彼らの生き方が理解できなかった。彼らが、安易な生活に堕してしまっているようで、寂しかった。また彼らは、そうであることが当然の成り行きと考えているようで、景一は彼らの話を聞いているとだんだん不快になり、プイと席を立ったりした。また、ある時は口論となり、口汚く罵ったりしたこともあった。
 景一と彼らとの間には、いつの間にか大きな懸隔が横たわっていることを認めなければならなかった。そして、彼らとの美しい思い出の数々、あれらはいったい何だったのだろう、と独り嘆いているのだった。
 景一は、ラジオのスイッチを入れ、小さな音量でFM放送を聴いていた。パジャマに着替え、また横になった。
 少し飲み足りない気がした。だが、下へウィスキーを取りに降りていくのも面倒だな、と考えているところへ、ドアをノックする音がした。
 景一が声をかけると、久美子が顔を覗かせた。
「まだ起きていたのか」
「うん」と頷く久美子も、パジャマ姿である。
「いいところへ来た。下から酒持ってきてくれよ」
「なによ……まあいいか。わたしも少しいただこうかしら」
 久美子は、ウィスキーと水と氷を盆にのせて戻ってきた。グラスは二つある。
 不慣れな手つきでウィスキーを注ぎ、氷を浮かべた。それを景一に手渡し、自分のグラスには水と氷をたっぷり入れ、ウィスキーをちょっと垂らした。
 景一がうまそうに一口飲むと、久美子も真似をして、ジュースでも飲むようにグラスを傾けていた。飲み方が悪かったのか、むせかえるように二、三度、激しく咳込んだ。
「きたないなあ、唾を飛ばすなよ」と景一が言うと、久美子はまだ咳をしながら、
「ごめんなさい……ああ、びっくりした。こんな苦いもの、景ちゃんよく平気で飲めるわね」
「ふふっ、慣れればうまくなる」
「どこが」
「酔うから、うまいんだ」
「ふうん、そんなものかしら」
 久美子は試すようにまたグラスに口をつけ、さもまずそうに渋い顔をつくっていた。
 すぐに顔が赤くなり、けだるそうな仕種が妙に色っぽかった。
 久美子は、白地に紺の水玉模様の、半袖のパジャマを着ていた。その涼しそうなパジャマの、プクンと膨らんだ胸のあたりが、やけに目につく。
 景一と久美子は父親がちがうせいか、性格もまったくちがっていた。
 景一は、家にいてもあまり勉強している感じはないのだが、成績は上位を下ることはなかった。勉強だけでなく、何事もスマートにやってのけるように見えるタイプだった。
 久美子はそんな景一を、兄というよりは一人の男性として、憧れに似た感情を懐くことがあった。
 景一にも、それに近い感情が久美子に対してあった。
 久美子は、顔や体つきが和子とよく似て、肉付きのよいポッチャリ美人である。また性格は父親に似ていて、何事にも一生懸命コツコツとしていく。学校の勉強は予習、復習をきちんとする。また定期試験の折など、二週間くらい前から、机にかじりつきで試験勉強を始める。
 景一はそんな久美子の後姿を見ていると、いじらしくて、抱きしめてやりたいような気持ちになるのだった。
 二人っきりで話をするのは、ずいぶん長い間なかったような気がした。
 久美子は今、大学をどこにするかで迷っている。保母さんか、小学校の先生になりたいと考えている。景一が明日香に相談してみるといい、と言うと、そうしてみる、とこたえた。
 そしてためらいがちに、家計のことが心配だと言った。景一が、そんなことを久美子が心配する必要はまったくない、とキッパリと言ってやると、安心したようだった。
 景一は、妹というより、気の合ったガールフレンドといっしょにいるような、不思議な気分を味わっていた。アルコールが適度に回ってきて、ずいぶんいい気持ちだった。
 ラジオからダニエルリカーリの『二人の天使』が流れてきた。彼女の張りのある高い声が、深夜のしじまに美しく響いていた。
 しばらくして、久美子は、
「わたし、景ちゃんが何を考えているのか、わかるような気がする」と、何の脈絡もなく言い出した。
 景一は怪訝な顔つきをして、
「何のことを言っているんだ」
「景ちゃん、お父さんがなくなってから変わったもん。……わたしにだって、それくらいのことは、わかるわ」
 景一は内心ギクリとしたが、勤めて冷静を装い、
「そうか」
「いちばん辛かったのは、お母さんだと思うの」
「そうだな」
 久美子はまだ何か言いたそうだったが、そのまま不自然な感じで口をつぐんだ。景一も黙ったままだった。
 しばらく居心地の悪い沈黙が続いた。
 やがてラジオの時報が鳴ると、久美子は、
「もう一時なのね、わたし寝るわ」と言って、けだるそうに立ち上がった。
 部屋を出ようとしてまた立ち止まり、景一に振り返って、
「あまり飲み過ぎないでね。なんだか自棄になっているようで、心配だわ」
 久美子が出ていくと、景一は急に深刻な顔つきになった。先日の和子もそうだったが、久美子までが、景一の心を見透かしているような気がした。
 酔いが一気に醒めてしまった。
 冷静になってみると、それは当然のこととも思われた。身近に接していれば、それくらいはわかるにちがいない。
 景一は今日まで周囲のひとたちに、自分の苦悩を気づかれないように努力してきた。それがすべて徒労にすぎなかったような虚しさを感じた。
 景一はまた飲み始め、夜が白むころまで眠れなかった。


第六章

 明日香は、仕事が明けるとまっすぐ自宅へ車を走らせた。
 ハンドルを持つ手が、ときどき小刻みに震えた。これから何が起きるのか、まったく見当もつかなかった。しかし、何かが起こることはまちがいなかった。
 明日香は昨夜から期待と不安のなかで過ごしてきたため、いささか疲れぎみだった。
 あの日、別れ際に景一は、必ず電話する、と約束してくれた。明日香は、翌日から電話を待ちわびていた。それが、やっと昨夜連絡があった。
 受話器を取ったのは貞子だった。
「まあ、お久しぶり。お元気でしたか?……ちょっと待ってくださいね、呼びますから」と言う声を聞きつけ、明日香は呼ばれるまでもなく、下へ降りていった。
「もしもし、代わりました」
「やあ」
「相変わらず、忙しそうね」
「まあな」
「おばさん、喜んでいたでしょう」
「そうだな」
 明日香は、景一から誘われるものと思っていた。ところが景一は、意外なことを言い出した。
「あした、君の家に行きたいんだけど」
「えっ! わたしのうちに?」
 明日香は思わず大きな声を出した。
 景一が高校生のころは明日香の家庭を訪れることもあったが、卒業してからは、一度もなかった。景一は狼狽している明日香を気づかうように、
「まずいかな」
「そんなことはないけど……でも、どうしたの急に」
「おじさんや、おばさんにも、聞いてもらいたいことがあるんだ。だから都合をきいてくれ。……君は、いいのかな」
「わたしは平気よ。じゃあ、お父さんに話してみる。ちょっと待っててね」
 明日香は台所へ急いだ。あとかたづけをしている貞子の背中から言いにくそうに事情を話すと、貞子も意外なようすで振り向き、
「用件は何なの?」
「それが、よくわからないの」
 明日香は心細げにこたえた。貞子は、少し青ざめて見える明日香の顔色から、心の動揺を察して、
「だいじょうぶよ、しっかりしなさい」と励ますように言って、かるく笑った。
 貞子が奥にいる正太郎に告げると、正太郎はすべてを了解したように頷いた。明日香は落ち着きを取り戻して、再び受話器を手にした。
「いいみたい。でも、お父さんが、遅れると悪いから八時にしてって」
「わかった」
 景一が電話を切ろうとすると、明日香はためらいがちに、
「あのう、話って、わたしのこと?」と、あたりまえのことをきいた。
「そうだ。……じゃあ」
「はい」
 昨夜の会話はそれだけだった。

 帰宅して、玄関で「ただいま」と明日香が声をかけると、貞子は待ちかねていたようにすぐ顔を出して、
「お帰りなさい。買い物これからなんだけど、あなたもいっしょに行かない?」
 明日香は、どうしようかとちょっと迷っていたが、
「そうね、わたしも行くわ」と、こたえた。
 買い物や料理の手伝いをしているほうが、気がまぎれていいような気がした。まだ五時半になったばかりである。景一が訪れるまでの不安な時間を独りで部屋にいて過ごすのは、耐え難いことのように思えるからだった。
 料理は、すき焼きにすることになっていた。
 貞子の提案に、正太郎も、
「鍋を囲んで、というのはいいかもしれないね」と,賛成していた。
 明日香は、貞子を乗せてスーパーへと車を走らせた。
 買い物を終えて自宅に戻ると、
「まだだいぶ時間があるから、何か少しおなかに入れていたほうがいいわよ」と、貞子は明日香を気づかっていたが、何も食べる気持ちになれなかった。
 野菜をきざんだり、お吸い物を作ったりしていると、七時前に正太郎は帰宅した。正太郎はすぐフロに入り、出ると明日香にも勧めた。明日香はシャワーを浴びて、二階に上がった。
 めだたぬように心がけながらも、念入りに化粧をした。たんねんに髪をすいていると、ふと“和服にしようかしら”と思った。しかし、和服だと料理をするとき袖が邪魔になるし、だいいち大げさな感じを景一に与えてしまうような気もする……。
 あれこれと迷っていると、下から貞子の声がした。
「明日香、そろそろ、みえるころよ」
 明日香は返事をする代わりに下へ降りて、和服のことを貞子に相談した。貞子は、
「そうね、ふだん着のままのほうがいいんじゃないかしら」と言った。
 明日香は貞子の意見に従うことにした。
 二階に上がり、白地にストライプのブラウスに着替え、スカートは淡いピンクのものにした。鏡に写った明日香の姿は、清純な女学生のようであった。
 しばらく窓辺に佇んでいると、向こうから歩いて来る景一の姿が見えてきた。暗くて顔ははっきり見えなかったが、歩き方でわかった。
 明日香は下へ降りて、門のそばで出迎えた。
 景一は明日香に笑顔を投げかけ、
「やあ」
「いらっしゃい」
 玄関のドアを開けると、貞子が待っていて、
「お待ちしていましたのよ。さあ、お上がりください」と言って、奥へ導いた。
 居間に入ると、正太郎が寛いだ和服姿で座いすに座っていた。ほかにも三脚、揃いの座いすが置いてあった。
 正太郎は読んでいた新聞を脇にやり、
「やあ、ずいぶん久しぶりだねえ」と、懐かしそうに声をかけた。
「ごぶさたしています」と景一は、かるく頭を下げて言った。
 明日香は、正太郎の向かいの席に景一を導いた。明日香は景一の隣に座った。
 正太郎は景一の近況をきいたりした後で、
「とりあえず乾杯しよう」と言った。
 貞子と明日香がビールを注ぎ終わると、
「久しぶりの邂逅を祝して、乾杯」と、正太郎の音頭に合わせて、それぞれコップを鳴らした。
 貞子はコンロに火を点け、油をしいた。
「すき焼きですか、うれしいな」と、しごく無邪気に喜ぶ景一に、明日香はプッと小さく笑った。笑ったおかげで、緊張感が少しほぐれた。
 肉を鍋に入れながら貞子も笑っていたが、
「最近は、ギター弾いていないんですって?」と、景一にきいた。
「ええ、今さらギターでもないと思って」
「そう、それは残念だわ。あんなに上手だったのに」
 貞子は料理をする手を休めて、景一を見つめて言った。景一の腕を惜しんでいるようだった。
 昔、景一がまだ高校生だったころ、景一たちの演奏を録音したテープを、貞子と正太郎に聞いてもらったことがあった。
 正太郎もそのときのことを思い出したのか、
「今の若い人はいいね。われわれ昭和一桁世代は、歌といえば軍歌しか聞かなかった。そのせいで、音楽には強いコンプレックスがある。ギターやピアノを弾ける人が羨ましくて、それだけで尊敬してしまうんだ」
 ほどよく味がついたところで、鍋に箸を向けた。
 景一はよく飲み、よく食べていた。
「庄司君は、遠慮がなくていいね」と正太郎が言うと、
「そうですね」と、貞子もほほえんでいる。
 明日香は自分のことのようにはにかんでいたが、景一が無理にそうしているようにも見えた。確かに何度も、ご飯をおかわりしたりしてはいるが、ひごろの景一に比べると、ベースは遅いし、量も少ないような気がする。どんな場においても、あまり自分を変えないひとだけど、さすがに緊張しているのかもしれない、と思えてくるのだった。
 和やかな雰囲気のなかで、ようやく食事が終わろうとしたころ、
「なんだか、ひとりで平らげてしまったみたいですね。もう、しっかり満腹ですよ」と景一は、さも満足そうに言って、
「じつは、昼食をすませてから何にも食べていなかったので、おなかがへってしかたがなかったんです」と正直に言うと、爆笑が起こった。
 景一は笑いが収まると急に姿勢を正して、まじめな顔つきになった。明日香だけでなく、正太郎と貞子も、景一の次の言葉を緊張した面持ちで待っていた。
「やはり、話していたほうがいいと思って……」と、景一は話し始めた。声はガラリと一変して堅い。
「二十日ほど前のこと、明日香さんから久しぶりの電話をもらいました。縁談について迷っていて、僕に相談したかったみたいです。ところが僕はショックを受けただけで何もこたえられず、後日手紙書くから、と言ってその日の会話は終わりました。
 僕は悩みました。僕自身のこと、明日香さんのこと。結論はなかなか出ませんでしたが、唯一はっきりしたことは、僕にとって明日香さんが、いかに大切なひとであるかということでした」
 景一は用意してきた言葉のようにスラスラと語っていたが、その態度には誠意が感じられ、聞き入る者を引きつける力があった。
「僕はかつて、明日香さんが僕以外の男性と結婚するなんて、一度も考えたことはなかった。あり得ないことと思い込んでいたようです。二人はどんなに離れていようと、いつか必ず同じ道を歩むものと、信じて疑わなかったのです。
 すべての非は自分にある、と深く反省しました。僕は相手の男性のことを詳しくは知りませんが、きっと僕に比べれば、はるかに明日香さんにふさわしい人なのでしょう。
 僕には生活力がない。結婚を意識したとき、それがいかに大きな欠陥であるかに気づきました。
 僕の青春は数年前のある事件をきっかけにして、百八十度大きく変わってしまった。その時、一生かかっても解明できないような命題をかかえ込んでしまったようなのです。
 その日以来、そのことにこだわって今日にいたっています。
 僕は明日香さんを迎えられるように、生活を立て直してみようと考えてみました。でも、だめでした。形式だけ整えたところで、明日香さんをいつかは不幸にさせてしまうだけだとわかったからです。
 今の僕には何かが足りない。何かをつかまないかぎり、明日香さんを幸せにすることはできない。でも、明日香さんを誰にもわたしたくない。僕は悩み続けました……」
 景一は一瞬口を噤んだ。苦痛に顔を歪め、目をうるませていた。
「僕は明日香さんを諦めます。所詮、高嶺の花です。遙かなひとのようです。
 今の自分に女性を求める資格はない。特に明日香さんはいけない。こんな素敵なひとを不幸にしてしまうなんて、断じて許せないことだからです。……僕は明日香さんを諦めます。身を切る思いで忘れてしまいます。
 今日は、これだけのことを聞いてもらうつもりで、伺いました。
 ちょっと辛いので、これで失礼させていただきます。
 かってなことばかりして、ほんとうに申し訳ありませんでした」
 景一はそう言って、深々と頭を下げた。そして顔を上げると同時に、サッと部屋を出て行った。
 正太郎夫妻は呆気にとられて、引き止めるのを忘れてしまった。明日香が後を追うと、貞子も慌てて立ち上がった。
 景一は無言のまま玄関まで歩き、ドアの前でやっと振り返った。頬が濡れていた。景一は軽く手をかざし、
「じゃあ」とひとこと、明日香に声をかけて出て行った。
 明日香は、景一がドアの向こうに消えても、そのまま佇んでいた。貞子が何か話しかけてきたが、わからなかった。急に悲しみが込み上げてきて感きわまり、ワッと声を上げて泣き出した。泣きじゃくりながら二階へ駆け上がり、そのまま降りてこなかった。

「明日香は、まだ帰ってこないのか」
 正太郎は帰宅して、貞子の顔を見るなり、そう言った。貞子は、
「ええ」と、こたえただけだった。
 七時半ちょっと前だった。明日香は津田と会っているはずだ。
 明日香は長い間津田を避けていた。今月の初めのゴールデンウィークや、その後も津田から何度となく電話がかかってきたが、ずっと断り続けていた。やっと決心がついたのか、今日は津田の誘いに応じた。
 昨夜のことだった。
 津田から電話があり、明日香は気のない態度で応対していたが、どうやら会う約束をしたようであった。
 貞子は、その様子を正太郎に告げたあとで、
「明日香は、断るつもりじゃないかと思うんですけど」
「断るって、何を」
「決まっているじゃないですか、結婚のことですよ」
「ああ、そうか」
 正太郎は大きくため息をついた。
「あなたから、どう考えているのか、きいていただけませんか」
「そうだな……じゃあ、明日香を呼んできなさい」
 貞子はすぐ二階に上がり、明日香を連れてきた。正太郎の前に座った明日香は、少し俯きがちである。
 正太郎は話しにくそうだったが、やさしい口調で、
「電話、津田君からだって?」
「はい」
 明日香は細い声でこたえた。
「あした会うことにしたんだね」
「はい」
「……ところで、明日香はもう津田君のこと、決めているんだろうね。どんなふうに言うつもりなのか、よかったら、お父さんに聞かせてくれないかな」
「……」
 明日香は俯いたまま、ためらうように口を噤んでいた。
 正太郎は明日香がいつまでも黙っているので困惑していたが、明日香の心境はわかるような気がした。
 景一が訪れた日から、ちょうど二十日を経ていた。
 あの日から明日香は、病人のように精気をなくした。心の傷は尋常ではなく、はた目にも痛々しいほど沈み込んでいた。両親と顔を合わせるのが辛いのか、食卓についてもすぐに席を立ち、二階へ上がっていったまま顔を見せない。
 明日香がふさぎ込むのは無理もないことではあるが、両親にしてみれば、気が気ではない。貞子は、明日香が病気にでもなるのではないかと、心配でしかたがなかった。だが正太郎は、放っておくようにと命じていた。
 容易に口を開こうとはしない明日香の態度に、正太郎も、貞子が言ったように、明日香は津田の申し出を断るつもりなのだろうと思っていた。
「お父さんは承諾しようと断ろうと、どちらでもかまわない。明日香のことなんだから、明日香の考えたようにすればいいんだ。ただ大切なことだから、目先の感情にとらわれるのではなく、一生のことを考えて判断してほしいんだ。……お父さんも、お母さんも、明日香さえ幸せになってくれれば、それでいいんだよ。わかるね」
「はい」
 明日香は小さく頷いた。泣きたいのを我慢しているようだった。正太郎も少し声を詰まらせながら、
「今夜は遅いから、もうおやすみ。津田君に、あまり気をもませるのはよくないから、あしたは、明日香の正直な気持ちを打ち明けるようにしなさい。……わかったら、もういいよ」
「はい、心配ばかりかけて、すいません」
 明日香は静かに席を立った。
 明日香が出ていくと、貞子は、こらえかねたように泣き出した。

 景一の、誠意あふれる熱弁に接してから、正太郎夫妻は、景一の評価を少しずつ変えていった。
 彼らが初めて景一に会ったのは、まだ明日香が高校生のころだった。
 明日香の紹介する景一は、初対面の夫妻に対して臆する様子もなく、気さくで、陽気で、第一印象はすこぶる良かった。
 景一が上京したことで、二人の交際は終わったかにみえた。
 ところが四年前の夏、明日香は関西へ旅行に出かけたあと、上京したらしいことに気づいた夫妻は、二人にひどく裏切られたような嫌な心持ちにさせられた。しかし、最近の若者にとっては、ごくあたりまえなことかもしれないと、なかば諦め、明日香を責めることはなかった。
 その後も、明日香が景一の帰省のたびに会っていることは知っていた。だが遠く離れているせいだろう、あまりうまくいっていないようだった。
 津田が水森家を訪れるようになったのは、今から一年くらい前のことだった。
 津田が、明日香に好意以上の感情を懐いていることは、すぐにわかった。
 三ヵ月ほど前、津田から明日香へ求婚したことを聞かされてたとき、来るべきものが来たというのが実感だった。夫妻は津田の申し出を快く迎えた。
 津田は、大学四年間仕送りなしで自活していたのをはじめ、苦労を重ねてきた人らしく、老成していて、多少若々しさに欠けるうらみはあるが、なかなかの好青年である。生活も安定している。しかも、いずれは夫妻と同居してもよいと考えている。夫妻には、非の打ちどころのない良縁と思えるのだった。
 ところが、とうの明日香がはっきりしない。原因はどうやら景一のことらしく、明日香は今だに景一のことが忘れられないようだ。
 景一と明日香の関係について、夫妻には若干の意見の食い違いがあった。
 正太郎は、あくまでも明日香の気持ちを尊重するつもりだった。だが貞子は、万が一、二人が結婚したところで、明日香が不幸になることは目に見えているから、無理にでも別れさせるべきだと考えていた。
 夫妻には、景一が何を考えているのか、まったくわからなかった。無責任としかいいようがない。
 ここ二年くらい、何の便りもないようである。そんな景一に、明日香が今だに執着している様子がいじらしくもあり、かわいそうでもあった。
 ところが先日の景一の訪問から、夫妻の心は微妙に揺らぎ始める。
 それは、二人の交際に否定的だった貞子に、より顕著にあらわれていた。
 二人の愛情の深さはただごとではなく、貞子にはそれが、たいそう美しいものと感じられた。以前の自分が、二人の間を無理やり引き裂こうとする、鬼のような母親に見えてきて、申し訳ないことをしてきたように思えてくる。
 そして、景一が明日香を断念すると言ったにもかかわらず、二人をなんとかしていっしょにさせてやりたい、と考えるようになっていくのだった。
 貞子に比べると正太郎は、まだ景一に対して楽観しているわけではなかった。むしろ貞子が急に景一に同情的になっていくのを見て、もっと冷静になるようにと言いきかせるのだった。
 そんな正太郎に、あるとき貞子は、感情的な言い方で、
「あなたは、あの日の庄司さんの態度を見ていて、何にも感じなかったのですか」と、迫るように言った。正太郎は少したじろぎながら、
「いや、わたしは君に劣らぬほど庄司君には同情的であるつもりだ。しかし、明日香の夫として、庄司君にはあまりにも多くの欠点がある。その状態はまったく今でも変わってはいない、ということを言っているだけなんだよ。
 どうも君は、一時的な感情でものを考えてしまう悪い癖がある。……そうでなくても明日香は迷っているのだから、われわれが冷静になって的確なアドバイスをしないと、不幸な結果になってしまうおそれがあるんじゃないのか」
「そうですか……わかりました」
 貞子は、言葉とは裏腹の不服そうな顔で言った。
 正太郎も、あの日の景一の真摯な態度に、大いに打たれるものを感じていた。しかし、だからといって、景一の現状や、将来的にみても不安が多すぎるという実状を、ないがしろにするわけにはいかなかった。
 しかし明日香が、すべてのことを冷静に判断したうえで景一を選ぶのであれば、それはそれでよかった。正太郎も景一の人格には強く魅かれるものがあったし、それは景一の社会的な立場のなさを補ってあまりあるものとも思えたから、そのときはむしろ、喜んで二人がいっしょになれるように応援してやりたいと考えているのだった。

 九時過ぎに明日香は帰宅した。
 貞子は玄関で出迎え、明日香を連れて正太郎の前に座った。正太郎は、
「おかえり」と、声をかけたあと、
「で、どうだった?」と、単刀直入にきいた。
「はい、断りました」
 明日香はキッパリと言った。
 心の整理がついたのか、スッキリした表情だった。最近はいつも俯きがちだったのが、今は正太郎をまっすぐに見ている。
「心配ばかりかけて、すいませんでした」
 明日香は軽く頭を下げた。
「いや、いいんだよ。……そうか、やっぱり断ったのか」
 正太郎は深くため息をつき、考え込むようだった。
 しばらく、誰も口を開こうとしなかった。
 やがて重い沈黙を払うように正太郎は、夫妻のいちばん気になることをきいた。
「ところで、庄司君のことはどうするつもりなのかな?」
「……まだ、そこまで考えていません」
 明日香は顔をくもらせ、口ごもるように言った。
「そうか、そうだね、あせる必要はないさ……」
 正太郎はちょっと口を噤んでいたが、すぐにつづけた。
「あのとき庄司君は、明日香のことを諦めると言ったけど、きっと本心では、正反対のことを言いたかったんだと思う。お父さんも男だから、庄司君の辛い気持ちが痛いほどわかった。今はこんな状態だけど、待っていてくれれば必ず迎えに来る、と言っていたんだと思うんだ。……明日香、庄司君って、ほんとうに素敵なひとだね」
 正太郎の言葉が終わると、明日香は急に顔を歪め、泣き出してしまった。正太郎は明日香の敏感な反応に狼狽して、
「ごめん、ごめん、……お父さんも、お母さんも、庄司君のことを誤解していたと反省していたもんだから……明日香が複雑な気持ちになっているのも、わからないわけじゃないけど、でも庄司君のことは、一時的な感情ではなく、冷静に考えてほしいと思って……ごめんよ、泣かせるようなことを言ったりして……だけど明日香のことなんだから、明日香がしたいようにすればいいんだよ……ただ、どんなことでもいいから、相談してほしいんだ。独りで悩んでいる明日香を見ているのは、それは辛いことなんだよ。……わかるね?」
 明日香は、涙をいっぱいためた目を上げ、ハンカチを強く握りしめながら、
「はい……もうだいじょうぶです。心配しないでください」
「そうか……うん、じゃあお父さんは、あんまり心配しないようにするよ。……疲れただろう、もういいから着替えておいで」
 正太郎がいたわるように言うと、明日香は、
「おやすみなさい」と頭を下げて、部屋を出ていった。
 正太郎が言ったように、明日香はひどく疲れていた。二階に上がると、ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく何もする気になれなかった。涙に濡れた目や頬を、ハンカチで拭った。
 昂った心が静まると、いろいろなことが胸に蘇ってきた。
「結婚の話、なかったことにしてほしいんです」と、明日香が言うと、津田は苦しそうな顔をして、
「よかったら、わけを聞かせてくれないか」と言った。
 明日香は正直に今の心境を語った。
 明日香はすべてを白紙に戻したかった。先日の景一の発言で、なにもかもが吹き飛ばされたような気持ちだった。今の明日香には、津田を少しも愛していないことがはっきりとわかる。悩んでいたのは、できることなら両親の期待に応えたいと考えたからだった。わかりきったことではあったが、今ではいっそう明確にそう思う。
 今の明日香は、結婚や恋愛など考えるゆとりがない。あえて考えるとしたら、それは景一のことだけである。
 明日香は津田のプライドを傷つけないように気づかいながらも、ほぼ真実を語った。明日香が口を閉ざすと、津田は、
「万が一、庄司君とうまくいかなかったら、いつでも戻って来てほしい」と、力なく言った。明日香は、
「ありがとう」と、ただ一言こたえただけだった。
 あの時景一は、明日香を断念する、と涙ながらに訴えた。ところがその告白は、明日香への愛情が、いかに深いものであるかを意味するものだった。景一が両親を前にして諦めると断言した以上、確かに諦めるつもりなのだろう。しかし、たとえば明日香が身ひとつで景一の胸に飛び込んでゆけば、景一は拒むことはないだろう。いや、むしろ感動的に迎えてくれるにちがいない。
 景一が、何かに悩んでいることはわかっていた。景一は高校の終わりころから、急に内向的になっていった。どうやらその原因は、父親の逝去と関係があるように思える。
 あるとき、そのことを景一にきいたことがある。すると景一は、
「以前、そのことを含めて、すべて君に聞いてもらいたいと思っていた。しかし、これはおれ自身の問題であり、あくまでも孤独のなかで処理すべきだと考えなおしたんだ」と言った。明日香は納得いかず、さらに強く問い質すと、
「君に心配させたくないんだ。わかってもらいたい」と、しんみりと言った。
 明日香はそれ以上きけなかった。景一が率直に語ってくれなかったのはさみしかったが、それが明日香を気づかってのことと知ると、うれしくもあった。いつかまたきいてみようと思いながら、今日にいたっている。
 景一は何にでも徹底するタイプである。きっと父親の死に何か感じるものがあって、それにこだわっているのだろう。このままで終わるひととは決して思えない。今は未知数ではあるが、いずれはきっと何か大きなことを成し遂げるような気がする。
 ひょっとすると、またギターを持って歌い始めるのかもしれない。苦悩の長いトンネルを抜けたとき、まっしぐらに走り出すだろう。そのまま一生ロマンを追い続けるにちがいない。
“あのひとの所に押しかけてみようかしら”と明日香はボンヤリと考えてみた。驚いている景一の顔を思い浮かべたりした。でも今すぐには、そんな思い切ったことはできそうもない。
 明日香もふつうの女性である。景一の真情がどうであれ“わたしは捨てられたんだわ”という思いを拭いきれなかった。それが景一の本心でないことは充分わかっていた。しかし、わかっていても、どうしようもない痼のようなものが、明日香の心のなかに残ってしまったのだった。
“今は心の傷を癒すことが大事なんだわ。これからのことは、もう少し元気になってから、ゆっくり考えればいいのよ”と明日香は、自分の胸に言いきかせていた。
 景一のことを考えると、よく思い出すことがある。
 二十歳の夏、景一と新宿のビル街を歩いていて、歩道橋を渡ろうとしたときのことだった。景一は歩道橋の中程で立ち止まり、そのまま佇んでいた。そこからは、巨大な高層ビルの、鼎立している様が見えた。明日香も寄り添って眺めていた。
 しかし、景一が見ていたのは、ビルではなかった。
 ふと景一の横顔を覗くと、これまで一度も見たことのない沈痛な表情で、道路を見下ろしていた。そこには、猛スピードで走り抜ける車が、洪水のように、引っ切りなしに流れていた。
 明日香は、苦悶に歪む景一の顔を見た瞬間、ぞっと悪寒を覚えた。景一が、そのまま車の流れの中に、身を投げてしまいそうな気がしたからだった。
 あの時の姿が、今の景一の本質なのではないか。明日香には、景一がいつも何かに苦悩しつづけているように思えてならなかった。
 腕組みをして、深刻な顔つきで虚空を凝視している景一の姿……。
「庄司さん、きっとわたしが助けに行くから、それまでおとなしく待っているのよ」
 明日香は、心のなかの景一に呼びかけていた。


第七章

 大きく開け放たれた窓から、時折爽やかな風が吹き込んでくる。風薫る五月初旬の午後である。
 連日晴天がつづき、もう初夏を思わせる気候だった。風がなければ、汗ばむほど気温は上昇していた。
 爽やかな風は新緑の香りを運んでくるようで、景一を幸せな気分にしてくれた。久しぶりに味わう、平穏な一時だった。
 景一は駅前で食事を取り、部屋に戻ったばかりだった。食後のけだるい体を横にして、タバコに火をつけて煙の行方をボンヤリ見ていた。紫煙はユラユラと左右に揺れ、ゆるく昇って消えていく……。
 春が来て、窓を開けるようになってから、涼風とともに、騒音も容赦なくとびこんでくるようになった。
 東へ四、五軒行った向かい側の家には仔犬がいる。何が気に入らないのか、しばしばヒステリックに吠えたてる。今まで気にならなかったのは、おそらく最近になって飼い始めたからなのだろう。
 西に数軒行った所にあるアパートからは、毎夕四時ころになると、決まってピアノの音が聞こえてくる。ショパンの曲が多いようだ。たまに聞かされるのならよいにしても、毎日となると許し難い。
 また景一のアパートの大家は、年のせいで耳が遠いらしい。よくテレビを大音量でつけている。部屋でステレオを聴いている景一の耳には、すぐ向かいの大家の部屋から放出される、ばかでかいテレビの音のほうがクッキリと聞こえるほどであった。
 これらすべての騒音が、犬が静まると次はピアノの音がしてくるというように、ときには重複して、景一の部屋までとどいてくる。それは開放的な季節がもたらすものだろうか。窓を閉ざしていたころには、それほど気にならなかったはずである。
 そして相変わらず、隣の部屋のラジオの音にも悩まされつづけていた。
 この地でもまた景一は、騒音の火にあぶられるような苛立たしさに耐えなければならなかった。ときには地獄とも感じる。
 景一は、今まで何度も引っ越しを繰り返してきたが、もうここで落ち着くしかないと考えていた。ひょっとしたら、この騒音が命取りになるかもしれないという、漠然とした不安にとらわれることもあった。
 しかし、いまはみな静かにしていて、穏やかな落ち着きのなかにいられた。
 景一は立ち上がり、数日前買ったばかりのレコード、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』に針を落とした。
 十二弦ギターの音がなめらかに流れ、シンバルの澄み切った音が堅く響いてくる。哀しみを込めたボーカルは、ウエストコーストの夢の破綻を歌う。リードギターの圧倒的な哀愁は、嘆き悲しむ声から、現実を全否定する抵抗の叫びへと変わる。さらにギターは泣き続け、尽きぬ悲しみの余韻を残して過ぎていこうとする……。

 深夜――
 景一は、深く思索に沈んでいた。
 いすに座って腕組みをして、足を組んだまま身動きひとつしないでいる。
 脇にあるワゴンには、ウイスキーボトルとグラス、そしてガラスでできた大きな灰皿が置いてある。グラスにはウイスキーが少し残っていて、氷はほとんど溶けて、小さくなったのが、ひとつふたつ浮かんでいるだけである。
 ――数十億年前、地球上に原始生命が発生したのは、無機物から有機物への驚異的な突然変異だった。だが死とは、有機物から無機物への変化といえる。生命は誕生とともに有機物になり、死と同時に無機物へともどるのだ。無機物から有機物への移行はもちろん驚くべき出来事ではあるが、また一瞬前まで泣いたり笑ったりしていた者たちが、死を境にして、突如無生の物体へと変質する事実も驚異的なことではないのか。
 ――この地球上に存在する数十億の人間も、あと百年もすれば、すべて死んでしまうだろう。それだけではなく、あと五十億年もすれば太陽は破滅期に入り、老衰した太陽は赤色巨星となって膨張しつづけ、地球を呑み込んでしまうだろう。そのとき、地球上のあらゆる生命体は確実に死滅する。またこの大宇宙自体も、いつかは死滅してしまうにちがいない。ならば、それまで地球上に存在していた生命はどこへ行ってしまうのか。また宇宙に生息していたあらゆる生命は、どうなってしまうのだろう。
 景一は、組んでいた腕をほどいてグラスに手を伸ばし、残っていたウイスキーを飲みほした。タバコに火をつけ、吸い終わると、狭い部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
 景一の眼前にはいつか、あの夏の日に、明日香と眺めた海が蘇っていた。それは今まで見た風景のなかで、最も印象深いもののひとつであった。
 あくまでも青い海、そして足元に寄せていた白い波――。それは心が洗われるような、じつに雄大な景観であった。
 ――月の引力が起こす潮流。人は満潮時に生まれ、干潮時に死んでいく。人の生死は月の影響下にある。あらゆる存在が宇宙のリズムの中に生き、そして死んでゆくのだ。太古の昔と同じく、波は寄せ、引いていくように。
 ――太陽系の九つの惑星のなかで、なぜか地球だけが、太陽からほどよい位置を占めることにより、生命を誕生させるためのすべての材料と、環境を整えていった。やがて原始生命が発生し、アミーバーからホ乳類へと限りない進化をつづけ、ついに知的生命体である人間の出現にいたるのだ。
 ――太陽系が属する銀河系は、数千億の恒星が渦巻き状に連なった星雲であり、太陽はその中のひとつの恒星にすぎない。さらにその銀河系と同じ規模の星雲が、宇宙には数千億にも及ぶほど無数に存在し、それらすべてが、ある一点を中心にして回転し、超高速度で運行しつづけている。大宇宙に存在する無限とも思えるほど膨大な数の恒星、そのどれひとつを取ってみても、この宇宙のリズムを乱すものはない。その規律と調和は見事というほかはなく、それを動かしている根源的な力の偉大さと神秘な力に、宗教的な感慨を懐かせるものがある。しかし、この大宇宙のすべての運動は何のために、何を求めてなされているのか……。
 景一はいつも考えていた。
 この無限に広がる大宇宙と、永遠に及ぶ時間に対して、自分自身の存在意義をどこに求めたらよいのか――と。
 宇宙に思いをはせるとき、その営みの理性を遙かに越えた雄大さと、見事な調和に、畏敬の念をいだくとともに、些細なことに一喜一憂する自分が、いかにも儚い存在に見えてくるからだった。
 しかし、今それが何であるかわかった。
 それは死である。
 この世でもっとも重要なことは、宇宙や永遠に及ぶ時間よりも、自分自身の死のほうが、はるかに重大なことなのだ。人間が無限の宇宙と永遠の時間を自分のものにできるのは、真に死を眼前に意識した時のみである。
 死を直視する景一は、自分の存在が、この大宇宙よりももっと大きく、貴いものであることに気づいた。
 ――宇宙の限りない運動は、おれのような知的生命体を生み出し、育むために営まれているのだ。また宇宙自体も、そのために生と死を永遠に繰り返していく。おれがいるから宇宙があり、おれが主体で、宇宙は客体なのだ。おれの死とともに、宇宙も時間も消滅してしまうだろう。天上天下、唯我独尊だ!
 景一は延々と思索を続け、夜は白々と明けていった。

 人の呼ぶ声で目が覚めた。ドアをノックしながら、景一の名を呼びつづける、老婆のせわしない声がする。大家のようである。二日酔いで頭が痛い。重い体を起こしてドアを開けると、電話だと無愛想に言う。景一はパジャマの上からズボンをはき、ジャンパーを引っ掛けて、下へ降りて行った。
 大家の家のドアを開け、挨拶をして玄関を上がった。
 すぐ右手にある受話器を取ると、聞きおぼえのある声が出勤の催促をする。
 景一は一週間近く無断欠勤していた。そのことを謝りもせず、体の調子が悪いから休みたい、と言った。すると男は、困るなあ、と言って、景一が欠勤している穴をうめるため派遣した男が、今日から新しい場所へ配属になる。だから、ぜひ出勤してほしいと、景一の無責任をくどくどと責めるのだった。
 景一は男の応対が気に入らなくて、ときどき舌打ちしながら聞いていたが、
「うるさいなあ、行きたくないと言っているだろ。誰がどこの配属になろうと、おれの知ったことじゃない。とにかく、とうぶん休みたいんだよ」と、声を荒げて言った。
 男はちょっと黙っていたが、
「じゃあ、辞めてもらうことになるけど、いいんだね」と、脅すような口調で言った。
 景一はしごく気楽に、
「ああ、いいよ」
「わかりました」
 男はあきれたように言って、電話を切った。
 受話器を置くと、奥にいた大家がまた顔を出して、変な目つきで景一の顔を覗くように見ている。何か言いたげな老婆を無視して、景一は無言のままそこを出た。
 部屋に戻ると、上着を脱ぎすて、また布団にもぐり込んだ。だが、なかなか眠れない。
 景一は体を起こしてウイスキーを飲み始めた。二日酔いの不快さを紛らすためだった。失業の不安が心の片隅をよぎり、やけになったことを少し後悔した。すでに手元にはわずかな金しか残っていなかった。銀行には、もとよりまったくない。母に送金をねだることだけは、なんとしても避けたかった。
 景一は二日酔いで寝過ごし、無断欠勤してから、ずっと仕事をする気になれないでいた。労働意欲も、生活意欲も、すっかり減退してしまった。
 いつも、逃れがたい絶望感にとらわれていた。自暴自棄になり、落ちるところまで落ちてみようと考えていた。無能で怠惰な自分には、生きるか死ぬかのせっぱつまった状況下でないと、何かをつかむことはできないだろうから……。
 不安と憂鬱のなかで、ただ日々だけが容赦なく過ぎていった。
 数日後、見栄もプライドも捨て、母へ送金をねだった。二日後、銀行に振り込まれていた。翌日、母が電話してきた。景一は母の心配そうな声をしばらく聞いていたが、話が長くなるにつれて苛立たしくなり、
「うるさい、もうわかった。じゃあな」と、有無を言わさず電話を切った。
 すさんだ生活が延々と続いていた。また金が乏しくなった。送金してもらって、まだ二週間も経っていなかった。収入のない身の上では、金は見る間に飛んで消えていく。不安と、せっぱつまった緊張感のなかで、景一は酒に溺れた。
 酒量は徐々に増していき、日にボトル一本空けることも珍しくなかった。昼夜をとわず飲み続けた。生活は不規則をきわめ、寝る時間も定かではなかった。
 今日もまた飲み続けていた。
 昼過ぎに目覚め、異常にたかぶる神経をしずめるため、飲み始めた。近くで飼っている犬の吠えたてる声が、景一の神経を逆撫でする。
 景一は長い間こらえてきたが、今日はだめだった。酔ってふらつく足取りで四、五軒先の、犬のいる家まで歩いて行った。
 景一が近づくと、白いスピッツのような仔犬は、繋がれた鎖をジャラジャラ鳴らしながら脅えるように後ずさりして、キャン、キャンと、さかんに吠えたてた。景一はかまわず近寄り、逃げまどう仔犬を力まかせに蹴飛ばした。仔犬は凄まじい悲鳴とともに宙に舞い、体ごと壁にぶつかっていった。
 火がついたように鳴き叫ぶ仔犬をさらにもう一度蹴り上げ、苦しげに上げる呻き声を背中で聞きながら、飼い主の家のドアを乱暴にノックした。
 何事かとあわてて出てきた、割烹着を着た若い女に、
「おまえなあ、うるさいんだよ、この犬。飼うんだったら、もっと躾をよくしろ。今度騒いだら、打ち殺すからな!」と、大声でがなりたてた。
 そして、唖然として突っ立っている女を見て嘲笑うように笑い、バタンと力まかせにドアを閉めた。
 夕刻、近くのアパートからピアノの音が聞こえてきた。景一は反射的に立ち上がり、アパートまで歩いた。
 ドアを強くたたくと、学生ふうの、なよなよした青白い顔をした男がドアを開けた。
「おい、いつもいつも美しい音楽を聞かせていただいているよ。えーっ、ありがたいかぎりだ。てめえ、ハタの迷惑なんぞ、考えたことはねえんだろうな。おい、何とか言ってみろ!……いいかげんにしないと、今度頭にきたら、ドアぶち壊して、ピアノ叩き潰してくれるからな。まあそのときは、てめえもただじゃあすまないだろうな。わかっているのか!」
 男は、何もこたえられないでいる。景一が黙って睨めつけていると、男は脅えたような小さな声で、
「すいませんでした。これから気をつけます」と言った。
 景一はまだ怒りがおさまらないようだったが、ふいにドアを音をたてて閉めた。
 日がすっかり落ちたころ、大家がまた大音量でテレビを見始めた。
 景一は、すでに抑制がきかなくなっていた。大家もくそもない。
 頑丈そうなドアを二、三度蹴とばしてから、力まかせに開け、
「コラッ! くそ大家! 聞こえているか!」と、大声を張り上げた。
 それには、さすがの耳の悪い大家も気づいたとみえ、老婆がヒョコヒョコと歩いて出てきて、間の抜けた顔つきで景一を見上げている。
「おお、ばばあか。そのテレビの音、何とかならんのか。ボリュームが壊れているんじゃないのか? おれがちょっと見てやろう」
 景一が上がり込もうとすると、奥から老爺が青い顔をして、廊下をドタバタと鳴らしながら出てきて、
「庄司さん、どうしたんですか、そんな大きな声を出して」
「おお、じじいか。おまえもまだ生きていたんだな。悪いことは言わないから、早く死んだほうがいいぞ。生きながらえたところで、どうせたいしたことはないに決まっている。ウーム、まあそんなことはどうでもいい。とにかく、静かにしろ。うるさいんだよ、そのテレビ。
 いいか、今度うるさい音をたてたら、おまえらブッ殺して、アパートに火つけるからな。いいな」
 景一のただならぬようすに気圧されて、老夫婦は口もきけないでいる。
 景一はいったん出ていこうとしたが、また振り返り、
「年寄りは年寄りらしく、静かにしているもんだ。もう暗くなった。小便でもして、早く寝るがいい。わかったな、この、くそじじい!」
 景一は転げ込むように部屋に戻った。床が小舟のように揺れている。血が、身体じゅうを乱打するように激しく脈打っている。
 胃が痛み、ときに激痛が走る。腹をかかえながら「なんだ、このざまは!」と大声で叫んだ。苦しくて、何度も転げ回った。耐えかねて、台所に立った。なかなか吐き出せず、苦しんだ。
 脂汗に、体じゅうがビッショリと濡れた。絞り出すようにすると、ウィスキーと胃液が混ざり合って出てきた。苦しい嘔吐が延々と続き、とうとう吐血した。目の前が真っ暗になり、その場に倒れた。
 しばらくそのまま横になっていると、気分が良くなってきた。少し眠ったようである。空腹で目が覚め、冷蔵庫にある物を、手あたりしだい口に入れた。腹が満たされると、また眠った。
 再び目覚めると、すっかり明るくなっていた。
 アルコールはもうぬけていた。横になったまま、ボンヤリしていた。天井にある粗末な蛍光灯を見ていると、
 ――ああ、おれはまだ生きている。と、しみじみと思った。
 こんな状態でも、人は生きていることができるということが、何だか、不思議な発見でもあるかのようだった。
 昨夜、吐血したことを思い出した。赤黒い液体が、出しっ放しにしていた水といっしょに、排水口に向かって吸い込まれるように流れていった。ぞっとするほど異様だった。
 それが夢だったのか、現実だったのか、自信がない。しかし、おそらくそれは、自分の身の上に起こったことにちがいない。
 胃がキリキリと痛んだ。鋭利な刃物で刺されるように痛み、ときには握り潰されるような痛みだ。
 だいぶ以前から胃の調子が悪く、薬に頼っていた。その薬が、最近は効かなくなっていた。ずいぶん悪化しているようである。
 昨夜の吐血は景一に、落ちるところまで落ちた、と感じさせるものがあった。
 午前中にもかかわらず、強い日差しが照りつけていた。
 景一は立ち上がって窓に近づき、そのまま佇んでいた。風はなかった。
 小さな女の子の手を取り、老婆が歩いて来た。女の子は、ときどきスキップをしながら、老婆になにか話かけている。学生ふうの男が自転車をゆっくりと走らせ、二人の横を過ぎて行った。初夏の朝の、しごく平和な光景だった。
 そんな時である。心の平安を乱す、不快な音が飛び込んできた。隣の部屋の女がラジオのスイッチを入れたのだろう、FENのアナウンサーの、英語でしゃべる、がさつな声が聞こえてきた。
 その瞬間景一は、
「終ったな。……こんな生活は、今日かぎりにしよう」と、呟いていた。
 心のなかで、何かがプツリと切れて落ちた。
 来るべきものがとうとう来た、と感じた。
 景一はステレオのスイッチを入れ、レコードを置いた。キング・クリムゾンの『スターレス』だった。
 力いっぱいボリュームを上げた。手がブルブルと震えた。崖っぷちから、思い切り遠くへ飛び込むような気分だった。
 重く憂鬱なメロディーが、壁を揺らすほどの大音量で、ワッと飛び出してきた。
 シンバルの澄んだ音が堅く響き、ギターの旋律が、露を含んだように切なく流れてゆく。ジョン・ウェットンは野太い声で、耐えがたい日々の憂鬱を、努めて感情を抑えながら歌い始める。
 ――そうだ、すでに日は落ちてしまった。すべてが、もう終わってしまったのだ。あとは、ただ静かに消え入るのみだ。
 景一は強烈な悲哀におそわれ、ウイスキーを手にした。グラスに注ぐのももどかしく、ボトルのまま流し込んだ。強烈な香りが鼻を突き、火のように胸が燃え、内臓へと広がっていく。
 ボーカルは圧倒的な音量で、人生の不条理を嘆き、そして叫び続けていく。
 ――もういいんだ。おれはきっと、こうでしかありえなかったんだ。すべての行為は、たとえそれが生の情熱に横溢していたときですら、常に死に向かって、走り続けていたんだ。ヒステリックに吠えたてた仔犬が悪いのではない。まして、隣の女のせいなどではない。まわりに起こる現象は、すべてが自分自身の生命の反映なのだ。だから、……これでいいんだ。
 ――明日香は、おれの死を耳にすると、何を思うだろうか。おれはこの事態を予測していたから、君と別れたんだ。おれのことなど、一刻も早く忘れるべきだ。君はこの世の中で、最も幸せになるべき才能を持ったひとだ。すてきな誰かと、どんなことがあっても、幸せな家庭を築いてもらいたい。
 ――おふくろは、さぞ嘆き悲しむことだろう。父たちだけでなく、おれまで死んでしまったのでは、ひょっとすると、病気にでもなってしまうのかもしれない。それがいちばんの気懸りで、おれはずっと自重してきた。だが、もうどうしようもない。おふくろ、許してくれ。久美子とともに、どうあれ健在であってもらいたい。
 景一は、両手を目の前にかざして見つめていた。ワナワナと震えている。膝がガクガクしてきて、立っているのが辛い。ロバート・フィリップの緊迫したギターの音が、爆発寸前の景一の心と、ピッタリと符合していた。
 やがてギターは叫ぶように泣き続け、突然シンバルが割れるように弾けた。
 ――何だと、これでいいんだ、だと、ふざけるんじゃない! おれは、この愚劣きわまりない世の中を、決して許しはしない。あの駄犬を、あのピアノ弾きを、おいぼれた大家を、そして、さかりのついた雌猫のような、隣の部屋の女をだ!
 そうだ、それだけでなく、この世に存在するすべての人間と、動植物にいたるまでだ!
 ――何とおれはさっき、愛情たっぷりに、明日香やおふくろのことを考えていた。そんなの嘘っぱちだ! おれにとって明日香は、ただの遊び女にすぎなかった。そんなこと、とうの昔から気づいていたいたはずだ! だから、いちおう人間らしい良心の咎めから、別れてやったんだ。心配しているそぶりなど、二度と見せるんじゃないぞ、この偽善者!
 ――明日香だってそうだ。今ごろは次の男に抱かれ、あのときのように、咽ぶような声を上げているだろう。チッ、なんてくだらないことを思い出しているんだ、バカ!
 ――そうだ、おれはいつも偽善者だった。愛情なんて、一瞬の気まぐれにすぎなかった。おふくろや久美子は、おれが死ねば嘆くにちがいない。しかし、それがどうしたというのだ。しっかり苦しみ、悶え死ねばよいのだ。そんなこと、誰が知ったことか!
 ――実父の死、それは愚か者の死だ。やつは生活に疲れきっていて、一刻も早く死にたかったんだ。あれは事故死ではない。おれの血から推測するに、やつはきっと自殺したにちがいない。祖母や養父もそうだ。やつらも、心の奥底ではいつも死を求めていた。だから、あんな事故に遭ったのだ。すべての人間が、一日も早く死ぬことを望んでいる。ただ彼らは、愚かにも、それに気づいていないだけなのだ!
 ふいに景一は、狂ったような叫び声を上げた。そして次の瞬間には、大声を張り上げて笑いはじめた。
 ――ざまあみろ。これですべてが音をたてて壊れていくだろう。汚辱にまみれたこの世界は、一度徹底的にぶち壊してみる必要がある。一発の核爆弾、それがこのサウンドだ。
 ――この音はおれの部屋を出て、全世界へと広がっていくだろう。人々はおれの部屋を指差し、憎悪の声を上げるだろう。間もなく大地は轟音を轟かせ、揺れ始めるだろう。豪雨とともに四方に稲妻が走り、雷電は大地のいたる所に突き刺さるだろう。大地は八方に裂け、パックリと地獄の口を開けて、ドロドロの赤いマグマを溢れ出させるだろう。
 ――落ちていく。永遠に、奈落の底へ落ちていく。
 おれは力いっぱいアクセルを踏んだ。すでにスピードメーターの針はレッドゾーンを指している。クラクションのけたたましい音とともに、紙一重で対向車が掠めて行く。信号を無視して、アクセルを踏み続けた。横断歩道で二、三人跳ね飛ばしてやった。体じゅうが震え、溶けてしまうような快感……。
 ――癌細胞は他の細胞を殺しつつ、異常なスピードで増殖し続けるだろう。摂取した栄養分を独占し、毒素を撒き散らしながら、臓器や組織を食い荒らしていくだろう。狂ったその細胞は、肉体を滅ぼしたあげくに、みずからも死滅してしまうだろう。地球を自分の所有物と勘違いしている愚かな大国の権力者は、相互不信の炎に焼かれ、ついに核のボタンを押してしまうだろう。瞬時にしてミサイルは世界じゅうの空を飛び交い、狂喜した人々はおれの部屋を指差して、英雄を讃えるように喝采を送るだろう。核はあらゆる国々で炸裂し、地球上の生物は絶滅してしまうだろう。地球上の核爆発は太陽系のリズムを破壊し、銀河系の律動をも乱していくだろう。やがて地球は軌道を失い、宇宙の果てへと消え去っていく……。
 愚か者たちよ、死ね! 一刻も早く、死ね! すべての生命体が死滅した時、初めておれは安心して生きていくことができるからだ、くそっ!


終章

 午前二時になろうとしていた。
 すべてのものが、夜の底に寝静まっていた。
 広い世界で、景一の部屋にだけ、明々と灯がともっているようだった。
 昼から飲み始めた酒に泥酔して、夕刻そのまま眠った。十二時過ぎに目を覚ましてから軽い頭痛に悩まされていたが、それもすぐにおさまった。
 昼間の、嵐のような狂気は過ぎ去り、いまは混沌とした精神のなかにいた。そして景一は、もし今日の夜明けまでに確たる生への信念をつかむことができなければ、暁を見上げながら死のうと、固く決めていた。
 景一は、夜明けにこだわりたかった。
 未明から早朝へのこの時間帯がいちばん好きだからであるが、それだけではなかった。景一の記憶によると、夜明けの一瞬に、真理を悟った先哲は幾人もいた。この時間帯には、何か不思議な力があるように思えるのだった。
 夜と朝の狭間、暗黒から黎明への瞬間――。いかにも魅力的である。
 景一は、これから早朝までの一刻に、最後の望みを託そうとしていた。来たるべき死を凝視しながら……。
 ――おれのなかにある“一度死んでみるしかない”という、どうしようもない衝動を抑えられないのは、一度死を、こっぴどく身体で実感してみたいと強く思うからなのだ。それによってどうなろうと、決して後悔はしない。そして、ことを起こすのは、それからでもきっと遅くはないと考えるからなのだ。
 ――父たちの死は、虫けらの死と大差なかった。このままでは、いずれおれ自身も彼らと同じ運命をたどるような気がする。それよりは、自殺を選びたい。厳粛な死を、受動的なものではなく、自らの意志でもたらすことのほうが、まだましだと思う。それはおれにとっての、死への挑戦を意味するのだ。
 朝が来れば必ず夜が来るように、死はすべての存在に平等に訪れる。だが、あらゆる生命体のなかで、死を意識できるのは、人間の自我のみである。他の生物は、同じく死すべき存在でありながらも、その厳粛な事実を自覚することなく死んでゆく。
 死の自覚は人間の特権といえるのだが、しかし人間はそれと同時に、死にまつわる恐怖や、各種の煩悩をも引き受けなければならない。
 景一は机の引き出しの奥から、以前買っておいた登山ナイフを取り出した。
 鞘を払うと、鋭い光が刃の上をすべっていく。冷たく白い輝きを、美しいと思った。脳裏に、ナイフを胸に突き刺した自分の姿がうかんだ。顔は苦痛と苦悩に醜く歪んでいる。身悶えしながら死んでゆく、それは今の景一に最もふさわしい姿と思えてくるのだった。
 ナイフをかたわらに置き、タバコに火をつけた。ゴロワーズの、葉巻のような甘酸っぱい香りが、鼻孔を抜けて部屋に広がっていく……。
 不思議な気分だった。今まで一度も味わったことのない、緊張感と充実感がある。

 頭のなかを、ギターの哀切なフレーズがよぎった。
 ビートルズの『ホワイル・マイ・ギター・ゼントゥリー・ウィープス』の一節だった。聴きたいと思った。
 その曲は、明日香と初めて出会ったとき、景一が歌っていた曲だった。
 レコードをターンテーブルに置き、針を落とした。ボリュームを少し大きめにした。ずいぶん懐かしかった。聴き入るうちに、思い出が懐かしく蘇ってきた。
 あのとき、この曲のリードギターを、景一と藤田のどちらが担当するかで、仲間の意見はわれていた。藤田のパワフルなギターより、景一の甘いサウンドのほうが、この曲にふさわしいというのが大勢をしめていた。だが景一の意向で、藤田がリードギターを弾き、景一はフォークギターでリズムをとりながら、ボーカルに専念することになった。
 さらに思いは明日香へと移っていった。
 いつのころからか明日香は、長かった髪を肩のあたりで切り、かるくパーマをかけているようだった。景一は素直なロングヘヤーが好きだったから、その髪型を見たとき、ちょっとがっかりした。だが、見なれると、それも雰囲気がちがっていいのかもしれない、と思うようになった。
 景一は、今もし明日香が目の前に現れたら、すべてを棄てて、明日香と生きていくことができるような気がした。心のどこかで、それをいつも待ちつづけていたような気さえしてくるのだった。

 景一は立ち上がり、押入れを開けた。
 奥から仏壇と、父たちの写真がおさまった小さな写真立てを取り出した。
 長い間置きっ放しにしていたので、どれも埃だらけだった。
 道雄の写真を手に取り、ガラスの埃を指先で拭き取った。自分の顔によく似ている。
 あのとき母は、
「あなたは、お父さんによく似ているわ、顔も、性格も。お父さんは、いつも張りつめているようなひとだった……。景ちゃん、お願いだから、あまり思いつめたりしないでね」と、しんみりと言って、景一を心配そうに見つめていた。
 そのまま父たちの写真を見ていると、様々な思い出が蘇ってきた。
 景一が三歳になったばかりのころ、川で水遊びをしているとき、景一の名を呼ぶ声で振り返ると、むこうで道雄が、包み込むようにほほえんでこちらを見ていた。それが唯一の、実父への確かな記憶だった。
 景一が初めて「お父さん」と言った日、清はうれしそうに笑い、じっと母と目を見交わしていた。
 景一が小学校四年の一月も終わろうとしたある日、その日は祖母の誕生日だった。景一は、お年玉で粗末な手袋を買って祖母にプレゼントした。菊子はそれをおしいただき「景ちゃん、ありがとう」と言って、涙までうかべていた。
 数々の思い出の場面が目の前をよぎり、そして消えていった。

 山鳩の鳴く声が遠く聞こえた。
 確実に夜明けは近づいていた。
 景一は静かに立ち上がり、電灯を消した。部屋の中は、まだ夜であった。
 そのまま窓に近づき、空を見上げた瞬間、目を疑った。数時間前まで、あんなに晴れていた空が、いまは一面黒い雲におおわれている。景一は、全身から力が抜けていくのを感じた。
 最後に、旭日を仰ぎたかった。
 アパートからのぞむ、狭い空でよかった。
 景一は天を仰いでいた。そして心のなかで、瞬時に雲が消え去る様を思い描いていた。しかし、かすかな風が、ただ無関心にそよぐだけにすぎなかった。
 景一の過去のすべてが、この一時に凝縮されているはずだった。思いどおりの状況が設定されて、しかるべきだった。たかが天候にせよ、最後の朝にふさわしい、晴れわたった空を望んでいたのだった。
 曇った空――それは景一に、賭けに負けた、という印象を、強く与えていた。
 景一はその場座りこみ、しばらく動けなかった。
 やがて景一は、いつか見た光景を思い出していた。
 それを今日の空に望んでいたにちがい。
 それは、かつて夢の島や、Gビルの十五階から眺めた夜明けの空だった。
 静寂のなかで夜が少しずつ色づいてきて、虹のように多彩な色どりを描き出していた美しい空。正面に見える山がきわだって紅く輝き、その山頂から太陽が頭をもたげると、左右の山々は金色に燃え上がっていった。みるみるうちに太陽が、その巨大な全容を現す。群立する大小のビルの背後の青と紅の鮮やかな空、そしてそれらすべてを見下ろし、金色の光の矢を八方に放ちながら、赫赫と昇る大日輪……。
 養父の死から、景一はすべてを否定するようになっていった。それは、否定のための否定ではなく、そのあとに残る何かを求めてなされたものだった。
 たとえば、あの時の夜明けがそれである。あの感動だけは否定できない。
 景一は、それらのような、否定できない絶対的な何かを探し求めていたにちがいなかった。
 ――あの時のおれは、すべてを肯定していた。しかも、感動をともないながらだ。あのたぎるような情熱は、いったい何だったんだろう。
 ――そうだ、すべての者を愚かと思い、あらゆる存在の破滅を願うおれの心にも、生の歓びと、すべての生命体をいとおしむいのちが確かにあった。おれはすべての人間関係を愚かなものと思い、あるいは思い込もうとしていた。しかし、いかに否定し去ろうとしても、できないことがあった。おれは、おふくろや妹、明日香や旧友たちとの触れ合いのなかで、彼らの愛情をしみじみと感じることがあった。そんな時おれは、あらゆる生を即座に肯定していたし、日ごろの否定的な自分が、どうしようもなく醜い存在に見えてきて、強烈な自己嫌悪におそわれていた。泣き出したいほどの感動をともないながらだ!
 ――そうだった。確かにそうだった。いかに否定し去ろうとしても、できないことも数多くあった。それは、自然の雄大さや、ひととの触れ合いのなかで感じるものだけでなく、おれは美しい音楽や文学に接したとき、震えるような生の歓びに、誰へともなく感謝すら与えていたではないか!
 だから生きてみるんだ。もう一度試してみるんだ。ただ無心に生きてゆけばそれでよいのだ。
 とにかく、生きつづけた者の勝ちなんだ! と、胸のなかで強く叫ぶ声が聞こえる。
 すべての状況はそろっていた。
 明日香をなくしたことも、身体の不調も、金が乏しいことも、ジリジリと火にあぶられるような騒音も――。それらすべてが景一を追いつめているようだった。
 しかし、その気になれば、そんなことはたいした問題ではない。
 金がなければ、日払いの仕事を探せばよい。身体のことは、医者にかかればすむことである。騒音に対しても、解決策が皆無というわけではない。明日香とのことにしたって、今からでも取り返しがつくかもしれない。
 しかし、容易にそうできない何かがあった。
 ――おれは死の解明なくして、真の自由も、自己の確立も、決してありえないと信じてきた。だからおれは、死の実体をつかむために、あえて死に身をゆだねたのだ。
 それは“虎穴に入らずんば虎児を得ず”と考えたからだったろう。死の実体を知るには、常に死と背中合わせの生活をする必要があったからだ。
 どうやら死には、近づく者を死にいたらしめる、魔性の力があるようだ……。
 死を賭けてきた以上、このままでは潔く死ぬしかない。それが最初からの約束だったからだ。
 ――おれはどこから来て、どこへ行こうとするのか。いつも死を凝視しながら生の意義を探ろうとしていたおれとは、いったい何者なんだ。この人生、はたして生きるに値するものなのか否か……。
 おれは、これらすべてのものへの根本的な解決なくしては、魂は空虚であり、決して救われることはないと痛切に感じていた。いわば死の次元から生を見ていて、そして、死によっても虚しくならない生とは何かを、常にわが胸に問い続けてきた。
 ――死を解明するには、結局宗教によるしかない。仏門に入るにせよ、確たる何かがほしかった。今日までの思索で得たものには、じつに多くの貴重なものが含まれていたと思う。だがそれでも、まだまだ何かがたりない。所詮、既成宗教でだめなら、新たな宗教を興すしかないのだから……。
 ――いいところまできていた。限りなく真理に近づくことができた、と思う。しかし、……無念だ。
 景一は、地中深く沈められたように動けなかった。一瞬まざまざと地獄をみていた。それは真っ白い、無の世界だった。
 底知れぬ虚しさ……、それはまた、永遠に浮かび上がることのない、深い悲しみでもあった。
 長い間そうしていたのか、それとも、ほんの束の間であったのかもしれない。ふと気づいたとき、空がほのかに色づいていた。
 景一は、重い身体を起こして窓に近づき、そのまましばらく佇んでいた。
 湿気をおびた微風が肌に心地よい。
 鳥の囀りが爽やかに胸に響いてくる。
 ゆっくりと夜が白く明けていく。
 やがて景一は、東の遠い空を見つめながら、静かに呟いた。
「庄司景一、二十四歳。生死(しょうじ)の闇夜は、果てし果てしなく、か。……ああ、暁は遙かなり」
 その時、厚い雲の上空では、午前四時の太陽が力強く昇ろうとしていた。

(完)



(C) Satoru Nakano 2002

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